2000.10.14
 の料理人沖縄料理と民族芸能
 金城 吉春 (きんじょう よしはる)
東京に エイサーの太鼓が鳴り響く
『あしびなー』に集う仲間の祭の時間だ
●プロフィール
金城 吉春(きんじょう よしはる)
1956年6月沖縄生まれ。26歳で上京し、塗装業を経て、沖縄料理『あしびなー』をオープン。親睦会から始まった『エイサー隊』の活動は8年目。出身も音楽的バックグラウンドも異なる隊員50名を率いて、日本各地の祭りに参加したり、アジアに進出して路上演奏を行う。遊び庭レーベルから沖縄民謡CD『月ぬ世』発売。
元祖フリーターから一念発起して上京
 金城の沖縄時代は、南国人らしく鷹揚としたものだった。26歳までは目的もなくブラブラしていたというのだから。 「いわばフリーターですね。米軍の梱包のアルバイトをしたり、ペンキ屋をやったり、溶接工もやったかな。実態は、泡盛飲んで遊んでいたというのが正直なところ(笑)」
 6人兄弟の4番目の長男。それでも親はとくに文句を言うでもなく黙って見ていた。転機は極私的に訪れた。失恋である。ついでに交通事故を起こしてしまう。コーナーを曲がりきれずコンクリートの電柱に突っ込んだ自損事故だ。 「そのとき、沖縄にいてもしょうがないなと、ふと思ったんですね。たまたま昔の彼女が結婚して東京に住んでいた。仕事ならいくらでもあるよという嬉しい言葉に飛びついて上京したというわけです」
 きっかけは他愛もないことだった。東京の暮らしがどんなものかなど想像もせず、彼女の家に居候を決め込んで新聞眺めて職探し。下町の塗装屋に就職した。
 1980年、バブル景気が始まろうとする頃だった。


休みの日は1日中サンシンを弾いていた
 建設も塗装も好景気、朝早くから夜遅くまで仕事は続いた。一人暮らしのアパート、周りには遊んでくれる友人もいない。ふるさとの生活とはあまりにもかけ離れた都会暮らし。仕事が休みの日は所在なく、初めて寂しさを感じた。
 「そのとき、家の床の間にあったサンシンを思い出したんです。早速送ってもらって、休みの日には朝から晩まで弾きました。夜中には消音のため弦に割り箸を挟んで弾きまくった」
 沖縄にいた頃には気にも留めなかった沖縄民謡が、やさしくなつかしく体に染み込んでいく。東京での一人暮らしに、沖縄では感じたこともない迷子のような気分を味わっていたのかもしれない。家の灯りが見えたときのほっとする気持ち、それがサンシンの音色だったのだろう。
 「沖縄県人会の集まりに顔を出したのが最初でした。居酒屋で酒を飲みながらサンシンを弾いたり歌ったり。そのうち、東京にも東京のエイサーがあってもいいよねということになって、エイサー隊をつくったんですよ」
 エイサーとは沖縄民謡のひとつ、サンシンや太鼓と歌と踊りが一体となった民俗芸能である。各地の祭りに参加したりツアーに出かけたり、エイサー隊の活動が生活の一部になった頃、金城の東京生活も軌道に乗ってきた。


沖縄の家庭料理を提供する溜まり場
 沖縄料理の店のオーナーシェフならば、料理の話も聞かなければなるまい。 「実は料理より溜まり場がほしくて店をもったというのが本音なんです。僕の料理は特別なもんじゃない。母親がいつも作っていた沖縄の家庭料理が主流です」
 母は料理の天才だった。金城自身、沖縄では台所に立つことが好きだったという。料理で身を立てようなどという気はさらさらなかったが、好きこそものの上手なれで、沖縄料理は身に付いていた。母は東京で一人暮らしをする息子に鰹節やゴーヤ、ポークの缶詰など食料品をたっぷり送ってくれた。サンシンと沖縄の食材で人心地つく金城だった。
 塗装会社で6年働き、独立を果たした金城は、それから10年間塗装会社を経営するのだが、折からのバブル崩壊で建築関連は不況の只中。そんなとき、知り合いの沖縄料理の店のママが帰郷することになり、後を託す人を探していた。
 「じゃあ、俺がやるよと引き受けたんですよ」
 それが4年前のことだった。JR中野駅にほど近いその店を金城は『あしびなー』(遊び庭)と名づけた。
 最初のメニューは6種類。それでもシンカ(仲間)は喜んで通ってくれた。


料理も太鼓も自分を伝えること
 今ではメニューは30種類に増えた。『あしびなー』のゴーヤチャンプルは絶品というお客の後押しが、金城の自信を深める。
 エイサー隊の活動も年々活発になってきた。店が休みの日にはサンシンを習いに通う人も増えた。ときには、エイサーの講習にカルチャースクールに出向くこともある。
 「沖縄料理もエイサーもウチナンチュー(沖縄の人)だけのものじゃないですから。僕の中にある料理もリズムも東京で広めていけたらと思っています」
 自分が持っているもの、知っていることを伝える喜びを知ったとき、人生の楽しみがわかった。26歳までの沖縄と20年の東京暮らしのどこにも無駄はなかったと、金城は思う。
 『東京に来たとき、僕が持ってきたのは『からだ』だけ。でもこのからだには、唄、踊り、そしてリズムが僕の知らぬ間に刻まれていた』(『月ぬ世』CDジャケットより)
 金城のエイサーにかける思いは深い。太鼓の音色の深さと手踊りのやさしさが、東京の人の心に響くことを信じているから。
 『僕たちが東京でエイサーを踊るとき、太鼓の音色は日本の人に響く。韓国の人に響く。中国の人に。フィリピンの人に。タイの人に……。祭りは天と地をつなぐ。踊りは人と宇宙をつなぐ』(同)