
・70年代ディスコ・プロデューサー誕生
新丸ビルの2店舗「MUSMUS」「来夢来人」を運営するためにテーブルビートという会社を新たに設立した。しかし、佐藤氏は70〜80年代に、ディスコなど流行りの店舗を多数プロデュースしたエラ・インターナショナルの社長という顔の方が有名だ。
佐藤氏のディスコとの出会いは、日新物産のパブ「カンタベリーハウス」(六本木)でのアルバイトに始まる。その後「カンタベリーハウス」はフードのバイキングを始めた大型ディスコとして有名だ。70年代、六本木の「最後の20セント」チェーンと、新宿の日新物産がディスコブームを2分していた。日新物産はその後、新宿でショーパブ「黒鳥の湖」などを展開する、Aプロジェクトに引き継がれていく。
その後、「ツバキハウス」(新宿)で初店長になる。ファッションディスコで、女性も気楽に来れるディスコ。近くの新宿2丁目にはゲイ向けのディスコが数店あり、ファッション系の人たちが遊んでいた。日本のアパレルが海外へ進出していた時代で、同じ新宿にある文化服飾学園の生徒も集まって盛り上がっていた。ニューヨークに1977年に誕生した「スタジオ54」。米国の音楽や芸術界のセレブが集まるディスコとして日本でも有名になった。その「スタジオ54」と「ツバキハウス」のイメージが重なり大ブームとなる。
「『シティー・ボーイ』という流行語を生みだした雑誌『ポパイ』編集者や、ファッション業界の人たちがよく遊びに来ていました。発売前の情報が入ってきた。レコードもデモテープの段階で入ってきて最新の音楽が聞けたのも流行った理由の一つです」と佐藤氏は当時を振り返った。
日新物産で「玉椿」白鳥の湖」「ピーター&ラビッツ」、「キッスラジオ」、「タップチップス」など当時の話題の店舗を続々立ち上た。そして、11年間勤務後、独立する。
・バブル頂点1989年、東京・芝浦「ゴールド」オーナーに
独立後、商業ビル「原宿ビブレ」をプロデュースし、1Fのカフェ「ビーベン」、最上階のイタリアン「ラビータ」を運営。
岡田大弐さんと「クラブD」(青山)、コンパをテーマとした客単価の安い「パラディソ」(六本木)、アークヒルズのフレンチベトナム料理「ADコロシアム」(溜池)、巨大シャンデリアの「トゥーリア」(六本木)、大阪のディスコ「ゲネシス」。商業施設も「マイカル本牧」をプロデュース。当時の夜遊び族には、たまらなく懐かしい店名が続く。
空間プロデューサー、山本コテツ氏と「トゥーリア」などで共に仕事をしていた。佐藤氏は「表にはコテツを出して、自分は裏方」とし、出しゃばらなかった。佐藤氏に聞いても「山本コテツの行方は知らない」と言う、息長く続けるには目立ち過ぎないことが秘訣なようだ。
佐藤氏はトータルプロデューサーの草分けだ。資本家に金を出してもらい、運営を受託するという仕組みは飲食では当時、無かった。「プロデュースは店を作るまでが仕事ですが、店はお客とスタッフで作り上げていくもの。だから、運営まで関わりたい」として、プロデュースだけでなく運営まで手掛けるのが佐藤スタイル。

「ゴールド」 ダンスフロア

「ゴールド」 ダンスフロア
バブル頂点の1989年に、投資家から金を集めて東京・芝浦に巨大クラブ「ゴールド」を運営。地上7階建ての倉庫をまるごと改造。総工費は15億円とも言われた。ダンスフロアだけでなく芸妓がいる会員制クラブ「YOSHIWARA」や、カップル向けラウンジ「LOVE&SEX」なども設け、ナイトクラブを目指した。今のグッドウィルグループの折口雅博会長が当時、日商岩井勤務時代にプロデュースした「ジュリアナ東京」は2年後の1991年に誕生した。
残念ながら、「ゴールド」の途中でバブルがはじけた。店舗は証券会社の担保となり、その後リニューアルするも2年で閉鎖となった。

芸妓がいる会員制クラブ「YOSHIWARA」

「ゴールド」 カップル向けラウンジ「LOVE&SEX」
・新橋「ぶた家」は豚肉ブームの走り
バブル後、新橋に焼鳥屋の空き物件の話が舞い込む。佐藤氏は、山形出身。東北では「焼鳥」と言えば豚肉だった。
1997年、新橋に豚料理居酒屋「ぶた家」をオープン。「やきとん屋が東京では少ない。豚は美味い。きちっとしたレストランでは豚料理は出ない。豚は家庭料理に止まっている。じゃ、やきとんの店をやろう」ということで「ぶた家」がスタート。当時は今のように豚肉は外食では余り食べられていなかった。
しかし、佐藤氏は「居酒屋に落ちぶれた」と周りから言われた。「でも、自分は『ゴールド』の時代より気持ち良かった。今までは普通じゃなかった、普通って何だろう? と考えるようになりました。」
「ぶた家」は10坪で、月商5〜6百万円と大繁盛。その後、恵比寿に移転、30坪で1年間後千三百万円まで伸ばした。ディスコの儲けに比べると大きな利益ではないが、佐藤氏は食の仕事に心地よさを感じた。ちなみに、ディスコは売上の60%が営業利益。原価率は10%以下で、お客さえ入れば非常に儲かるビジネスだそうだ。
ぶた家を5年間続け、3店舗までに育てた。しかし、2006年、ある事情で人の手に渡ってしまった。
・生産者と出会い、新丸ビルに「MUSMUS」
「ぶた家」で食材の勉強を始めた佐藤氏。食材への興味が強まり故郷の山形へ帰って、美味しい米、おいしい豚を知り合いから分けてもらい店で使っていた。また、佐藤氏は当時、体調を崩し食べる事の大切さを痛感した。
地方の生産者を回り始める。山形から秋田、北海道、九州へと拡大。生産者が自分たちで食べる用の農薬を使わない野菜を分けてもらった。田植えや稲刈りにも手伝いに行き、生産者の家に寝泊まりし、汗をかいて生産者からの信頼を得ていった。

「MUSMUS」店内
「生産者はアーティスト。1つ1つに拘って作っている」のが分かった。ディスコ時代はミュージシャンやアーティストと深い付き合いをしていた佐藤氏にとっては、農家と付き合うことに違和感を感じなかったそうだ。
「日本にはレストランはスタイルとして入ってきました。レストランの料理=フランス料理ではありません。フランスの地方を回ると、きっちり地方の料理が残っているんです。」
「日本も同じ。地方に料理のヒントがあります。食べ物は生活環境と密接につながっています。どうして春に苦いものを食べるのか? 冬には保存食を食べ続けたので、毒消しを体が求めるからです。スローフードの宝庫が日本。スローフードは普通に成り立っているんです」。バブル時代にディスコ文化を引っ張っていた佐藤氏は変わった。
三菱地所からトキアの立ち上げ時に「ぶた家」の出店を乞われたが話を聞かなかった。しかし、2005年に友人のプロデューサー山本宇一氏から新丸ビルにできる丸の内ハウスの話を聞いて、出店しようと思ったそうだ。
三菱地所との話し合いで決めた業態が、蒸し料理専門店「MUSMUS」。今まで培った全国の生産者とのネットワークを活かし、産地直送で野菜や肉、魚を仕入れている、スローフードのレストラン。
「『MUSMUS』を業態として形にしていきたい。地方の生産者の方に元気になってもらいたい。そして次の世代につなげたい。継続させたいと思うようになった。」
佐藤氏は生産者をグループ化して生産基地を作ろうとしている。そこから通販などで全国に販売していくことを計画している。

「MUSMUS」 杜仲茶高麗豚の冷製蒸し豚とキムチの野菜巻き(1200円)
・たまには70年代をテーマにしたい
食にこだわる店だけでなく、昔を知っている証人として「たまには70年代をテーマとした新丸ビルのスナック『来夢来人』のような店を作ってみたい」と佐藤氏。
70年代がテーマではないが、「ミルク」というクラブを恵比寿で12年間も経営を続けている。また、11/末に六本木で開店する「ローリングストーン・カフェ」をプロデュースし運営する。音楽雑誌「ローリングストーン」が最も輝いていた70年代のロック音楽がテーマのカフェだ。
また、「若い人にスナックの良さを伝えていきたい。『ゴールド』にもスナックがあったし、『夜光虫』もスナック。恵比寿の歌謡バー『x+y』もスナック。新丸ビルの『来夢来人』はまだ、スナックに成りきれていない。盛り上げるために週に2日、ゲイのスタッフを入れ始めました。」70年代はスナックも輝いていた。
「カッコいい大人に学んだ時代をもう一度。大人と若い人が一緒に遊べる場を作りたい」と、大人から若者へ遊び方を伝えていく文化の無くなった今を変えて行こうとしている。
「お金は後でいいという考え方がどこかであったが、利益を確実にとることの大切さを今は身にしみて感じています。自分が好きな事ができるなら、お金は優先にならないという姿勢で仕事を続けてきました。しかし、長くプロデュースの仕事を続けられたのは、助けてくれる人が次々に出てきてくれたからです。助けてくれるのは、私がお金に執着がないからだと思います。」
「バブル時代は、企画書を書いて何百万円、プロデュースするだけで何千万円という仕事をしていましたが、そんなあぶく銭は残りません。」
自分が好きなことを続けて30年近くもプロデュースの世界で活躍してきた佐藤氏。今後も、スローフードと70年代という2つのテーマで時代の先端を行く店を続々と作り続けて欲しい。
