フードリンクレポート


宮崎地鶏炭火焼「車」。オーナーの熱い血を薄めるな!
菅野 功 氏
株式会社イデア 専務取締役

2007.11.24
宮崎地鶏炭火焼「車」を始め、鉄板や「上方 御堂」など17店舗を東阪で展開するイデア。パイロットとして忙しく空を飛びまわるオーナーの熱い思いをスタッフに伝え続ける専務の菅野氏に強い組織の作り方を語っていただいた。


宮崎地鶏炭火焼「車」 名物「地鶏もも炭火焼き」

オーナーはプロのお客

  オーナーは航空会社に勤める現役のパイロット。奥さんが代表取締役を務め、専務の菅野氏が補佐している。オーナーは株主として経営にタッチしている。

「車」は1978年に奥さんの実家が始めた地鶏料理店。84年まで続けたが、国道の拡張工事で立ち退きとなりあえ無く閉店。オーナーはとても気に入っており閉店を惜しんで、「大阪にお母さん来ないかな? 大阪の人も喜ぶぞ」と大阪・伊丹空港近くの蛍池で86年に復活させた。28席の小さな店だ。これがイデアのスタートとなる。

 オーナーは、パワフルでエネルギーの塊。負けず嫌い。食べる飲むことが好きで美味い店があると必ず食べに行くそうだ。しかも、日本や海外を飛んでいるので見聞きの量は並大抵ではない。

 彼の目線はあくまでもお客。「俺を喜ばせてなんぼ」と、自分がお客の代表として自店を見ている。プロのお客が飲食店を経営している。

「お前らは地べたから見ている。俺は空から見ている。夜に空から見ると日本列島の東京、名古屋、大阪の明かりが同時に一望できる。更に、20数年の間、北海道から沖縄まで飲食店の変遷も同じように見続けた結果、流行は廃れ本物は続くという現実を肌で感じてきた。」

「30年経っても、なければならない存在の食べ物屋にならなければならない。焼き鳥屋は50年、100年経ってもある業態。我々はその中にいる。その中でイノベーターになろう。」

「深化させるんだ。新しくするでもなく、進んでいくでもない。宮崎の地鶏のことを語らせたら誰にも負けない存在になることだ。」

 イデアの社訓の一つに「長いものにはまかれるな。寄るな大樹の陰」というのがある。反骨心の強い独自の企業文化を持つイデア。その熱い血を冷めさせない努力を重ねている。


「車」丸の内店 外観


「車」丸の内店 カウンター


「車」丸の内店 テーブル席


5店舗出店にかけた15年間

  1986年の1号店。宮崎の「地鶏」を大阪に広めたい一心で始めたもののまだ「地鶏」は地方の産物でしかなく、今でこそ耳にするようになった「地鶏」だが、誰も「地鶏」「銘柄鶏」を知らず、スーパーに行ってもブロイラーしか並んでいない時代だった。

 今と同じく、骨付きの鶏肉を炭火で焼いた独特の宮崎の郷土料理「地鶏もも炭火焼き」を名物にしていた。また、焼酎も扱っていた。当時、焼酎は金のない人の飲む酒だったが、宮崎の焼酎を20年前から扱っていた。


炭火で焼く

 菅野氏は元々はNECで製造や営業を担当していた。たまたまNECの先輩の実家が大阪・鶴橋のお好み焼き店「千寿(ちづ)」の跡取り息子だった。その先輩が実家を継いだ時に盆暮や正月など忙しい時に頼まれて手伝っていた。それが菅野氏と飲食店の出会い。

 福島県出身の菅野氏によると、東北にはお好み焼き文化がなく、お祭りの際のテキヤのイメージがあり手伝うのが実は嫌だったそうだ。しかし、ある時、お客から「おにいちゃん、焼きそば焼いて。この間食べた焼きそばが美味しかったわ」と言われて、全身鳥肌が立った。

 NECでは、物の一部を作るだけ、何が出来上がるかも知らずにいた。飲食店では、自分が作ったものを目の前で販売し、お客が反応し再来店してくれた。今までは体験する事のない衝撃だった。最初から最後まで完結している飲食業の魅力にとりつかれた。

 8年間お好み焼き店で働いた。

 ある時、大丸百貨店の地下催事に「千寿」で出店。お好み焼きの隣で、焼き鳥を焼いていたのが、イデア・オーナー。その際に仲良くなった。「車」はデパート催事を本格的に行っていた。1号店が軌道に乗るまでは、オーナーが資金を補填する状況が続き、催事で売上を稼いでいた次第だ。

 そして菅野氏は「車」のファンになっていく。

 2号店は縁があってビルオーナーに助けていただき、94年に好立地に出店。大阪・千日前で鯨料理「徳家」など専門料理店が軒を連ねていた場所。

 オーナーは味には自信があり、時代が追い付いてくると信じていた。2号店で売上が少しづつ上がり始めた。よそでは味わえない料理を出す。「黒い!固い!何じゃこりゃ」と二度と来ないお客もいれば、ハマるお客も多く、彼らが口コミで宣伝マンになってくれた。


「黒い!固い!」地鶏もも炭火焼き

 2号店のレセプションに招待された菅野氏は働いた「千寿」を辞め、96年にイデアに入社。97年に大阪・江坂に開店した3店目の店長を務める。

 4号店は99年に大阪・えびす橋に。2001年1月オープンの5号店、梅田店でブレーク。認知度が急激に上がった。02年6月に東京1号店を恵比寿でオープンさせる。


すき焼

熱い血が薄まる! 2度立ち止まった

  2001年1月から02年6月まで1年半、出店をストップし、既存店に力を入れた。既存店を見直して今の従業員を成長させないと次の多店舗化ができない。1年半で人材採用をどんどんして組織を作った。店も無いのに東京で求人を出し、東京で採用。東京進出に向けて大阪に来させてウィークリーマンションに住まわせトレーニングを行う。

 1度目の立ち止まり。

 血が薄まっていく感覚があった。第一世代の菅野氏や部長達、第二世代の店長達で熱い思いにギャップを感じた。言い訳、妥協するような発言を店長やスタッフ達から聞くようになった。

 全社員会議を月に一度始めた。以前は、全店に行けたが、店舗が増え、行く店、行かない店が出てきてしまった。社員を集めてオーナーに同じ理念を毎回熱く話してもらった。

 そして、6月恵比寿、7月新宿、8月有楽町と立て続けに出店できた。

 05年で東京5店舗、大阪8店舗の計13店で2度目の立ち止まり。05年11月丸の内トキア出店、07年9月銀座八丁目ニッタビル出店の間で2年近く出店をストップ。第三世代の店長たちがサラリーマン的になりパワー不足に陥った。

「温度を上げるには、会って話す、これが全て」と菅野氏。

 06年には社内研修を充実させる。3ヶ月に一度、東京と大阪での全社員会議。新人は2ヶ月に1度のオーナー研修。オーナーに理念、社訓、沿革、思いを何度も熱弁してもらう。「血の熱さはここにある」と理解させる。

 菅野氏は店長クラスに現場のオペレーション、衛生管理を徹底的に教える。主任には、管理職研修。オーナーは月に3回位はどこかで熱弁するサイクルを作り上げた。スタッフのステップに応じて徹底的にコミュニケーションする仕組みだ。今年からはアルバイトにまで研修対象を広げ、店長が語っている。


成長するとズレる。会社も出来る事を広げてやれ

 鳥インフルエンザなど、単一素材の専門店ならではのリスクがある。イデアはリスクを分散させるために、5千円前後で飲食できて「明日も仕事をがんばろう」というお客を元気にする業態を作っていこうとしている。鉄板、串かつ、寿司などだ。

 イデアで働いている料理人はフレンチ、イタリアン、寿司など様々なジャンルでの経験があるにもかかわらず、単一素材の調理では飽きてしまう。


「鉄板や かんろ」大阪市北区国分寺


「鉄板や かんろ」カウンター


「鉄板や かんろ」 厳選和牛一口ステーキ


「鉄板や かんろ」 するめイカ

 菅野氏は発見した。「スタッフのやりたい事」、「やらなくてはいけない事」、「会社でできる事」の3つ輪が重ならないと人は辞めていく。重なりが大きい程、辞めない。人は成長するとやりたい事が当初とはズレてくる。そのズレ以上に会社でできる事を広げてやり、新たにやりたいことを発見してあげたり、提案してあげることが大切だ。

 3年前、面接で半年で辞めると言いだした人がいた。面接記録を残していたので見返してみると、過去3ヶ月間、一言も話していないことに気付いた。菅野氏は「スタッフのやりたい事」がズレて行ったことに気付くことができなかった。これを反省して、スタッフ育成のために前述の3つの輪を発見した。

 最近、出戻りが増えているそうだ。辞めた人が働く店に店長がスタッフ皆で飲みに行き「今はやりたいことが出来る会社になったんだよ」と言い回ってくれているからだ。

「しくみをイデアの文化に変えていきたい。イデアがやっている店だということを広めたい。イデアを安心のブランドにしたい」と菅野氏はオーナー張りに熱く語ってくれた。


菅野 功(かんの いさお)
株式会社イデア 専務取締役。1966年生まれ。福島県出身。NECに勤務後、お好み焼き「千寿」を経て、1996年イデア入社。2000年に専務取締役に就任。淀井勉オーナーの片腕としてイデアを牽引している。
株式会社イデア http://www.idea-co.jp/

【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2007年11月20日取材