・「最後までイタリアを感じさせます」
「リストランテ・イル・デジリオ」は、株式会社アクアプランネット福政惠子社長が初めて取り組むイタリアン業態。教育事業から外食事業に参入した福政社長が、起業した当初から手掛けたかった業態だ。
現在3店舗運営するベルジアンビア・カフェは世界最大のビール会社、インべブ社が創業し、「スローフード・スローライフ」をコンセプトに本場ベルギーのビールと伝統的な欧州料理を提供する正統派のビアカフェ。日本でのライセンス権を保有し、展開している。従って、今回のイタリアンは、初のオリジナル店舗となる。
東京・青山に来年4月に開業する東急ホテル&レジデンスの1〜2階の商業ゾーンに入居。70坪、60席のゆったりした空間で、客単価1万2〜3千円を想定している。
そこでシェフを務めるのが佐藤氏。20才からイタリアで5年半修行。3つ星「ダル・ペスカトーレ」「エノテカ・ピンキオーリ」などの一流キッチンで鍛えられ、筋金入りのイタリアンが作れる料理人だ。脇を固める強力な面々を紹介する。
○シェフ・パティシエ 梅田善友氏。
フィレンツツェの「エノテカ・ピンキオーリ」本店でシェフ・パティシエを務める。その間、「世界の洋菓子」第2巻に唯一日本人として掲載された。帰国後、「エノテカ・ピンキオーリ」東京店、「マンダリンオリエンタルホテル」など名店でパティシエを務めた。
○マネージャー 菊池剛氏
フィレンツェと日本のダノイでイタリアン修行。青山のリストランテでホールサービスに目覚め転向。食と接客の両面から最高のおもてなしを提供できる。
○ソムリエ 藤岡龍祐氏
「2005年度ワールド・ドラフト・マスター」日本チャンピオンとなったベルギービール界の有名人。ワイン・ソムリエとしても活躍しており、ドリンク全般と食とのマリアージュが提案できる。
「リストランテだが、固く敷居の高い空間ではなく、活気のある店にしたい。お客様はリラックスし、笑顔が溢れる。かしこまって、緊張してしまうような店にはしたくない」と佐藤氏は明るく語った。
「水だこのグリルと下仁田ネギのスパゲッティーニ」佐藤シェフ自信のパスタ
・「真ちゃん、美味しい!」
佐藤氏の両親は共働きで、青森県で床屋を経営している。忙しい両親を手伝い、小学校の頃から料理に目覚めた。自分で料理をつくる度に「真ちゃん、おいしい!」と言われ、どんどん得意になっていった。料理人になることが夢になった。
高校3年生の時、イタリアンやチャイニーズで働こうと思った。青森では、フレンチばかりでイタリアンの情報はあまりなかった。イタリアンやチャイニーズは食材の味がストレートに分かる点が気に入った。
姉が埼玉県川口市に住んでおり、求人誌を青森まで送ってもらい、それを基に履歴書を送った。最初に連絡をくれた東京・赤坂のイタリアン「ピッツェリア
マルーモ」に就職する。佐藤氏は縁を大切にし、この後も最も早く連絡をくれたレストランを選択していく。
「ピッツェリア マルーモ」には2年半。最初の3ヶ月はホールを経験。「今思うとホールは大切な経験だった」と振り返る。
「20才で海外に出る」と高校の時から決めていた佐藤氏は、この2年半で低い給料の中から節約し180万円を貯めた。これで、単身イタリアに乗り込む。
・学生ビザでイタリアン修行
1998年、知り合いもなく単身イタリア・フィレンツェに到着。語学学校に通った。貯金に限界があるので働こうと、片っぱしから何もわからずにレストランを回った。3ヶ月間は徒労に終わったが、4ヶ月目にようやく見つけた。「トラットリア・ラ・バラオンダ」。給料約5万円。そしてチップが月に6〜7千円もらえた。
「全てにおいて最も影響を受けた店です。調理が雑だったことに衝撃を受けた。でも、美味しい!」と、イタリア人シェフに感動した。
再度、片っぱしから履歴書を送ったら、2つ星の「アンティーカ・オステリア・デル・ポンテ」から直接電話がかかってきた。東京・丸ビルにも出店しているリストランテ。給料なしで、チップだけで良いなら3ヶ月間雇うと言われた。
また、幸いなことに、3つ星の「ダル・ペスカトーレ」からも「給料もくれ3ヶ月後からなら働ける」と連絡があり、両方の有名リストランテで働くことになる。「ダル・ペスカトーレ」では約1年間いた。
「自分の料理に対する情熱は誰にも負けません」と履歴書に書いたそうだ。この文章が星付きリストランテも動かした。
共に日本人が1人づつキッチンで働いていた。その後も日本人が何人も来たが辛抱できず続々辞めていったそうだ。イタリアの3つ星で働いていたと自慢する料理人の中には、経歴だけが欲しくて直ぐに辞めていった人もいるのではないだろうか。しかし、佐藤氏は異なり本物だ。
2つ星「サン・ドメニコ」(イタリア・イモラ)でも2003年2〜4月修行。前列左から2人目が佐藤シェフ。
・「ダル・ペスカトーレ」のお客はヘリで来る
仕事は辛かったそうだ。「アンティーカ・オステリア・デル・ポンテ」では、朝7時から掃事。ガス台のネジが金でできており全て毎日磨いた。3つ星レストランはよく田舎町にある。「ダル・ペスカトーレ」では、夜にはフェラーリが店の前に並び、ヘリコプターでお客がやってくる。外に出て、懐中電灯で空に向かって、店の場所を示したそうだ。
「エノテカ・ピンキオーリ」でどうしても働きたくて、最初に降り立ったフィレンツェに戻る。3回門前払いに会い、4回目でやっと会ってくれる。ホールにもキッチンにも日本人がいた。
同店には2年間いた。実は、辞めた1週間後にミシュランの3つ星に返り咲いたことを佐藤氏は残念がっている。
前菜担当のシェフを務めた。前菜、パスタ、魚、肉、デザートで5人のシェフ、そして統括するシェフがいる。キッチンでは20人が働き、80席の客席のために料理を提供する。
その間、2ヶ月間、F1開催で有名なイモラの街で、麺棒を使う手打ちパスタを学んだ。空気の入れ方、麺の粗さを腕に叩き込んだ。イタリア北部は生パスタであっさり系。南部は乾麺でムチムチ系が好きなそうだ。
2003年11月に帰国。通算でイタリアに5年半滞在した。
イモラの生パスタ店でパスタ修行
・帰国。シェフとして来年4月にリストランテを開業
帰国したのは「自分が上達したのか分からず、日本で通用するのか不安になりました。一度、日本に帰ってリセットし、再度、イタリアやフランスを目指そう」と考えたから。
「日本のお客様はどのように食べているのか知りたい。ホールがレストランを作る。ホールに出たい」と思い、オーナーソムリエの店でホールを務める。期間限定で故郷の青森でも働いた。
東京・乃木坂にあるリストランテの老舗「リストランテ山崎」で働いた。
リストランテ出店を夢見ていたアクアプランネットの福政社長に出会い「イタリアンをやるから入社して欲しい」と口説かれた。佐藤氏は福政社長をひと目で気に入る。「イル・デジデリオ」がオープンするまで、今は「アントワープ・セントラル」で1コックとして働いている。
来年4月のオープンを控え、内装、メニュー、人材など様々な準備に追われている。「興奮と不安。責任の重さを感じて口の中が乾いてくる」と佐藤氏は緊張を隠さない。
夢は「リストランテだが、かしこまったリストランテではなく、活気のある店にしたい」と語る。修行した「ダル・ペスカトーレ」は料理をほとんど変えず30年間営業を続けている。ゆったりした空間で「これは、3つ星だ!」と店に入るだけで感じるそうだ。そんな店が理想。
「料理は全てイタリアを感じるものにしたい。ドルチェまでイタリアン。最後までイタリアを感じて欲しい」と佐藤シェフはまだ見ぬお客に語りかける。