・東京での2号店、物件求む
内田氏は、2004年7月に開業した渋谷「ナビ・シブヤ」ビル3階で営業する「SUZU Cafe」のオーナーだ。カフェ・ブームの前から広島でカフェを展開し、「カフェの第一人者」と自負してきた内田氏が「東京に出て、渋谷の一等地でカフェ」をやりたいと意を決して東京にチャレンジした第1号店。
「IDEE」がプロデュースした大人のための複合商業ビルとして話題の「ナビ・シブヤ」は、ゼットン、ちゃんと、第一興商などの有名企業が入居。内田氏はデザインが好きで、「IDEE」のコンセプトに共感し、東京では無名に近い企業だっが、通い詰めて入居させてもらった。
8千万円を投資して「SUZU Cafe」を作り上げた。しかし、当初は月商、たった4百万円。知名度が無かった。DJ、芸能人とのコラボレーション、新商品発表会などイベントを頻繁に行い集客した。VIPルームもあり、芸能人客がお忍びで利用。取材が増え、テレビ、雑誌で紹介されるようになり、じわじわ人気が出てきた。その後、年々20%売上が伸び、現在は月商1300万円にまで到達。今や、利益で最も会社に貢献している店舗となった。
東京2号店の出店に向け、丸の内など新たな東京・新名所も含め、物件を探している最中だ。
「SUZU Cafe」(渋谷)店内
「SUZU Cafe」(渋谷) SUZU3品デリ
・広島の「カフェ第一人者」
内田氏は広島県生まれ。高校卒業後、安定収入にあこがれ公務員試験を受けたが、不合格。フリーターとなる。アルバイト先でバーテンダーとしても働いている人に出会い、バーテンダーにはまる。
「カッコイイものが好き、服が好き、車が好き」だった内田氏は、車を買いたくて高校時代に100万円を貯めた。しかし、バーテンダーにはまり車を買わず、200万円を集めてバーを開店。
広島市流川で19歳で6坪のショットバーを1人で起業。DJブースがあるカウンターだけの店。自分が裸になって女の子を笑わせるようなこともしたそうだ。何でもやって、半年間流行らせた。
本当は、カフェを最初からやりたかったが、カフェには1千万円かかると言われ、とりあえずバーをスタート。3年後に念願のカフェ「ティーサロン球」を開店。25坪。現在も変わらず営業を続けており10年を迎えた。
「あれもやりたい、これもやりたいでカフェになった」と内田氏。アパレルも好きで、自分で作った服をライブハウスで売ったりしていた。しかし、「男は外見じゃない、服なんて男の仕事じゃない」と思い、直ぐに辞めた。
「ティーサロン球」は3ヶ月間お客が来なかったが、テレビ取材をきっかけに売上が一気に3倍に上昇する。
そして3店舗目200坪のカフェ「go_ten_jiki」。海沿いの鉄工所の跡をカフェにした。これが大ブレーク。月商1600〜1700万円を売上た。
「go_ten_jiki」(広島)店内
go ten jiki コース
「黒澤」(広島)店内
当時、広島では、ジェリーフィッシュ(旧ラヴ)貞廣一鑑氏とほぼ同時期に活躍していた。カフェのコンプリート・サークル、和食のラヴ、そしてイタリアンのマリオグループとで広島の外食の3本柱と言われた。
そして、2004年に東京・渋谷に進出する。
・わざとビル上階でカフェ。
2007年には福岡にも「SUZU Cafe」を出店。大名の商業ビルの7階を選んだ。内田氏のカフェは「go_ten_jiki」以外、全てビルの上階にある。「目的客のみしか来てほしくない。お客にカフェを選んで欲しい」と語る。最初は売上が低いが、徐々に上げていく自信がある。特に、渋谷での成功は大きな自信につながっているようだ。
「SUZU Cafe」(福岡・大名)
「SUZU Cafe」(福岡・大名) オムライス
「カフェは趣味から始めたが、ちゃんとした文化にしたかった。カフェをブームになる以前からやっていて、ブームだから始めたと見られるのが嫌でカフェを辞めようかと思った。でも考え直して、文化にしようと思い始めた。そじて、実際に文化になった」と、カフェ文化へ貢献できたことを内田氏は喜ぶ。
自分の店舗には行かない。「用事もないのに行くと、店長を信頼してないように思われるから」。売上についても月に1度確認するだけと、店長に運営を任せている。東京、福岡の店舗は店長含め全員現地採用だ。カフェは人材を集めやすい業態ということもあるが、内田氏は人材に恵まれている。
現在、飲食業だけでなく、アパレルや店舗デザインも手掛け、マルチ・タレントぶりを発揮している。将来はリノベーション事業、ホテル、そして遊園地と活動フィールドをさらに広げていく計画だ。