フードリンクレポート


国産とらふぐにこだわり、首都圏で200店舗をめざす。
坂本 大地氏
株式会社東京一番フーズ 代表取締役

2008.1.30
「泳ぎとらふぐ料理専門店 とらふぐ亭」を首都圏で展開する東京一番フーズの坂本社長を取材した。関西を中心にふぐ料理を展開する会社で活魚ビジネスを学び、フグの価格破壊者として1996年に東京で創業。2006年にはマザーズ上場。さらなる頂上に向かって、200店舗をめざす。


「とらふぐ亭」を運営する坂本大地 東京一番フーズ社長

2006年12月マザーズ上場

 坂本氏が率いる東京一番フーズ07年12月末で「とらふぐ亭」48店、「ふぐよし」1店、そして泳ぎいかを扱う「ちゃんこ浪花茶屋」1店の計50店舗を首都圏で直営している。07年9月期で連結売上高39億円、経常利益4億円の実績を上げた優良企業だ。

 坂本氏は「ふぐ」を展開する会社の経営者の下で商売を学ぶ。独立して1996年に東京・新宿で「泳ぎとらふぐ料理専門店 とらふぐ亭」として1号店を出店。日本で一番難しいとされる東京都のふぐ調理師免許を取得しての開店だ。

 その後、社員の成長に合わせて年に3〜4店舗ずつ着実に店舗を増やしてきた。

 首都圏で10万人以上の乗降客のある駅は170ヶ所あると言う。その全てに出店し、12年に首都圏で200店舗体制を目指している。


国産養殖とらふぐを使用


最初はディスコから始まり活魚問屋に

 前会社の経営者の父親の経営する大阪府藤井寺市で寿司店の入るビルの3階でディスコを経営していた。そこでアルバイトとして働き始めたのが坂本氏。そのディスコは田舎にもかかわらず、大繁盛だったそうだ。

 実業家だった前会社の経営者は次いで活魚問屋を始めた。家業の寿司店などを売り先とし活魚に目を付けた。未だ活魚はほとんど流通されていなかった時代。行動力のある前会社の経営者は直ちに倉庫に水槽を作り、ディスコでアルバイトとして働いていた坂本氏を口説き活魚問屋の社員にしてしまう。坂本氏は社長のカバン持ちとして魚市場に通い仕入れを始めた。19歳ながら仕入れ部長に抜擢される。

「魚の事を全く知りませんでした。市場へ毎日通って学びました。早朝のセリの時間から行って、符牒や原価を学びました。自由にさせてもらいました」と、この時の勉強が現在も大きく役立っていると言う。

「当時、8百円で仕入れた魚を5千円で売ったりしていました。水槽の中で死んでしまう魚も多く、その分のリスクも含んで高く売っていました。でも誰も儲かっていなかった。同業の活魚問屋が次々に増え、互いに情報交換してようやく技術が高まっていきました。そんな時代です」と坂本氏は前会社の経営者の先見性を高く評価している。

 そして、「魚太郎」「熊野灘」といった活魚を扱う料理店が大阪で人気となり、それを見た前会社の経営者が今度は活魚料理屋をやろう、と言い始める。


「ふぐ太郎」で独立。大当たり

 前会社の経営者は活魚料理店をオープン。40坪。物凄く儲かったという。そして、奈良の郊外に1000坪の土地を買って、500席の店舗を作り2号店をオープン。「もうえげつないくらい当たった」と言う。「店を開けるとお客が毎日並んでいました。当時8千〜1万円もした鯛の姿造りを1980円で売りましたから」。

 坂本氏が仕入れ、マネジメント、料理まで奮闘し、繁盛店作りをここで学ぶ。

 価格破壊者として店舗数を増やし、その対象を鯛、次に平目へと移した。そして、目を付けたのがフグ。フグ鍋を1980円で提供した。大当たりし、4店舗まで拡大する。

 前の会社の経営者は「大阪ではチェーンはあかん、店名は全てバラバラで行く」とお客からはチェーンと見せない手法で店舗を拡大していた。

「5年間頑張ったら商売さしたる」と言われていた坂本氏は5年後の23才の時、フグ店のどこかをやらせてもらおうと独立の準備をしていた。しかし、前の会社の経営者から言われたのは「新しいことせい! 元のディスコを改装して新しいディスコをやれ。ディスコが好きでウチに来たんちゃうのか。2千万円貸したるからディスコやれ。」

 何と、坂本氏はニューヨークまでディスコの勉強に行く。「川上に行けば学べる」という癖がついていたので、ディスコの頂点、NYをめざしたそうだ。そして帰国後、藤井寺のディスコを黒人音楽を流すクラブに改装。しかし、カッコ良すぎて、直ぐに閑古鳥が鳴く。

「2千万円を返すには商売しかない」と、もう1回2千万円借りて、1980円のフグ料理店「ふぐ太郎」を大阪・生野でオープンさせる。40坪、深夜3時まで営業した。

 ロイヤルティとして、前の会社の経営者から仕入れるフグの金額を2倍にして払った。それでも利益が出る体質を作った。原価率は6割で始めた。在庫を残さない。その日の内に売りきってマイナスを出さない。儲けは酒で出した。どんどん仕入れ力が付いて原価が下がり、原価率は45〜50%に低下。「むちゃくちゃ売った」そうで、40坪で12月は3千万円の売上。2時間待ちは当たり前。

「ふぐ太郎」グループは4店となり、合せて前会社は全グループで27店舗。前会社の経営者から仕入れ続けた。「ふぐ太郎」グループはいつも売上トップ5の中に入っていた。


「けじめ」をつけて東京で開業

 前会社のまま東京へ進出することを打診すると共に前会社の経営者に確認した。しかし、「東京はあかん。フグは食わへん。やめとけ」と言われる。しかし、大阪では他の前会社のグループ店舗に迷惑になり出店余地がなかった。1人単身で東京に出ることを決め、「ゼロで行っていいですか?」と前会社の経営者に相談すると「自由にやれ。」と言われけじめを付けて東京へ行った。

 1980円フグの「とらふぐ亭」1号店を新宿・歌舞伎町に出したのが、1996年で27才の時。銀座、六本木、渋谷でも不動産屋を当たったが交渉の余地がなかった。バブル崩壊の影響が現れ、貸店舗の看板が目立っていた歌舞伎町のみ値切れた。30坪に初期投資2千万円でオープン。

 仕入れは、かつての人脈をたどって確保。配送が問題となったが築地に来るヒラメを積んだ活魚トラックを活用した。ヒラメは水槽の底にへばりついているので、空いている上の方にフグを乗せてもらった。運賃はただ。新宿・下落合に水槽を作ってストックした。

 もう一つの問題は、フグ調理師免許。各県ごとに試験内容が異なり、東京都が最も難関と言われている。東京で免許を持つ人の下で2年間学ぶことが前提。しかし、坂本氏は条例の抜け道を見つけ出し短期間に免許を取得した。

 同業のフグ料理店から様々な嫌がらせを受けたそうだ。もちろん、全く事故は起こしていない。

 1980円のフグは大当たりで、TVや雑誌に多数取り上げられ4〜5時間待ちの行列を作っていた。

 そこへ、「とらふぐ亭」の繁盛を聞きつけた前会社が東京に出店する。1999年に新橋で1号店をオープン。


田町店


田町店店内


2012年、200店舗を目指して

 ふぐ調理師の免許取得に2年かかるため、2年に1店のペースで当初は出店を重ねてきた。その後ドライブをかけ、2005年に10店舗、2006年に12店舗を出店。2006年12月に34店舗でマザーズに上場した。

 現在、首都圏ではフグ料理店のチェーンは2社のみ。2007年12月末現在、1位は前会社の経営者のグループ65店舗、2位は東京一番フーズ「とらふぐ亭」49店舗。2社以外は、個店ばかり。一時、大阪のチェーンが赤坂に出店したが、現在は撤退している。

「とらふぐ亭」は国産養殖トラフグを活魚のまま長崎県から運び込んでいる。寄生虫駆除のため、使用禁止されたホルマリンを使っていたことが、03年に問題となった長崎県は、いち早く第3者機関による養殖業者の認定制度を設けた。それにより、長崎県産フグは良モノとの認識が高まっている。現在は、安価な中国産フグを使用している店舗も多いが、「とらふぐ亭」は長崎県産を使用している。

 首都圏で10万人以上の乗降客がある駅に出店余地があり、調査すると170ヶ所あるという。「とらふぐ亭」が出店している立地はまだ一部に過ぎない。2012年に200店舗の目標を掲げている。

 立地開発は、各店の店長が受け持っている。お客の少ない夏場に店舗開発担当に変身し、4〜6月で開発し、8〜9月で開店。そして最盛期の冬を待つというサイクル。効率的に人材を活用している。

 1店舗あたり社員は2〜3人を貼り付け、店長もフグ調理師免許を持つ。社員の3分の2以上が免許を持っている。職人比率を落とす気はないという。これからの出店攻勢にも準備万端。

 悩みは、単価の高い個店のフグ料理店と比較されず、普通の居酒屋と比べられてしまい、お客から高いと言われてしまうこと。成功している「木曽路」「梅の花」「叙叙苑」をベンチマークに学ぼうとしている。

 また、フグ料理店という1業態のみの怖さも気になり、リスクヘッジできる他業態の開発もテーマだ。現在、活イカをテーマとする「ちゃんこ浪花茶屋」を1店舗運営している。さらに、従業員への暖簾分けシステムのトライアルを始めた。4月に1号店誕生する予定だ。

 活魚ビジネスを知り尽くし、活魚の価格破壊者として活躍する坂本氏の目の前には、まだまだ大きなチャンスが広がっている。


片岡鶴太郎氏の描いたロゴ



坂本 大地(さかもと だいち)
株式会社東京一番フーズ 代表取締役。1967年生まれ。大阪府出身。大阪で商売を学び。1996年に東京で「泳ぎとらふぐ料理専門店 とらふぐ亭」を創業。1998年に東京一番フーズを設立。2006年12月東証マザーズ上場。

株式会社東京一番フーズ http://www.tokyo-ichiban-foods.co.jp/

【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2008年1月21日取材