・30才まで音楽をあきらめきれず
薬師寺氏が明治大学時代にハマったのは音楽。ボーカルとギターを担当し、ライブハウスでは目立ったという。音楽で食べていきたいという夢を追いかけ、外食業界との出会いは音楽活動の資金稼ぎだ。
最初の飲食店でのアルバイトは、幡ヶ谷の「珈琲館」。時給480円と安かったが、食事付きが魅力で週に4〜5日も働いた。店長にいじめられたりしたが、粘り強く2年間続けた。常連客で成り立っている喫茶店で常連客から可愛がられ、コーヒーという商材も好きで仕事自体はおもしろかった。
また、弁当屋でも働いた。授業の空いている時間にこまめにシフトに入り懸命に働き、学生ながらに店舗の締めを任されるほど信頼された。
「仕事の面白さを知りました。やった分だけ認めてくれて、自分のスキルも上がる。僕はレジ打ちが得意なんです。昼時に弁当を買おうとするOLがレジにずらっと並びます。それを効率よく会計するために、釣銭のパターンを見極め事前に用意したり、先にお釣りを渡して後でレジを打つ。工夫するのが面白かった。今でもレジ打ちは自信があります」と真面目な薬師寺氏だ。
電話加入権の飛び込み営業、音楽番組制作会社のアシスタント・ディレクター、車に乗せられてハウスクリーニングなど、音楽への夢を捨てられず資金稼ぎに明け暮れたがそんな中でも、厳しい仕事環境の中で、体力と忍耐力も身につけた。
・ユージーのナイト接客に学ぶ
とうとう30才で音楽にけりをつけようとフロムエーを見ていると「エレファントカフェ」に目がいった。大阪から東京に乗り込んで来たユージーグローイングアップが、渋谷で「エレファントカフェ」「12.6東京」「ボビーズカフェ」など巨大コンセプトレストランを次々に出店していた時代。テレビのドキュメント番組でもグローバルダイニングと比較され、渋谷をジャックしそうな勢いだった。
「単純にカフェだと思った。バイトで働いた珈琲館も楽しかったし、音楽にけりをつけるため社員でがんばってみようと面接を受けました。会社というより『エレファントカフェ』に入ったつもりだったのに、面接は『ボビーズカフェ』。金髪に黒いシャツのお兄さんに面接され怖かった。今さら逃げられないと観念して、入社しました」
配属は「12.6東京」。5時にオープンすると長蛇の列ができている状態で、それからずっと満席、もの凄い繁盛店。
「コンセプトレストランのはしりです。ブラックライトやブルーライトの照明で、壁は漆喰のうちっぱなし。その中で和食の創作料理を出していた。今考えると不思議ですが、当時は若者に爆発的にウケた。客単価3200円と安いのに、ドレスチェックをしていました。ジャージやサンダルはお断り、入りたければ近くのドンキホーテで買ってきてくれ、と強気で応対。それでもお客様が来ました」と、当時のユージーは本当に凄かった。
薬師寺氏はユージーで飲食観ができたという。「ユージーは接客への思い入れが凄い。正直、料理が美味かったわけではない。客単価も安い。販促も全く打たない。町を汚すという理由から、ビラ撒きも禁止でした。」
「リピート客をつかむには接客しかない。例えば、2名席のカップルの横に男性2名客を入れるのは絶対だめです。間に入るのはカップルか女性2名。カップルの隣に座らされた男性2名はどんな気持ちか?と教えられました」
「お見送りを徹底していました。忙しくて料理が出てなくても必ずお見送り。また、フロアはテーブル担当制で自己紹介しながらメニュー紹介します。最後のお見送りまで担当です。3200円の客単価でやってました。どんなに忙しくても担当者はお見送りに行け、そして走って戻ってこい。初期の頃はテーブル会計ではなく、レジでお客様を並ばせていました。お客様が並んでいる時はテーブル担当はお客様と一緒に待って、その間、話をしろと教えられました」と言う。全てが細かく徹底されていた。
サービスのシステムは凄い会社だった。宇都宮社長はナイトビジネスの出身。ナイトのホスピタリティーをそのままコンセプトレストランに持ってきて人気を博していた。
「店長の下の課長の時、ヒラに降格されました。ユージーの副社長のお客様に望む料理と違うものを出した。何でこんなもんだしとるんや?と怒られ、その場で降格。ユージーでは役職がつくと黒いスーツが支給されるんですが、一般社員はアルバイトと同じTシャツ。翌日からTシャツに逆戻りです。でも、店長になる前に降格させられたのは凄く良かった。より一層、這い上がる努力に努めましたから。」と飲食に対する自信を深めた。
新店舗を2つ立ち上げた後、ユージーでの最後は、500席と巨大な「ブッツトリックバー」新宿店の店長。「結婚を機に他業態への転職を考えユージーを辞めましたが、自分にはやはり飲食しかない。また、新しい業種では今の給料を維持するのも難しかった。飲食の道しかないのかなと思い飲食への転職となりました。」
・ダイヤモンドダイニングの接客基準を作る
ユージーを卒業したアルバイトに誘われ、ダイヤモンドダイニングに転職。「大きさは違うがコンセプトで似ていた。ダイヤモンドは当時5店舗。小さい会社なら自分の経験は生かせる。松村社長から面接で何やってもいいよと言われ、いろいろ任せてくれるんだろうなと期待して入社しました」
最初は「迷宮の国のアリス」の店長。100席で客単価4000円〜5000円で当時月商1500万円〜2000万売っていた。箱は小さいが客単価が高く、客層が異なり見る目が厳しいことに気付く。フレンチイタリアン料理やワインの勉強に取り組んだ。
「迷宮の国のアリス」(東京・銀座) 2003年8月オープン
薬師寺氏はスタッフの指導が上手い。「教えるのが生きがい。半年後に化けるのを見るのが楽しい。今までできなかったことがポンと出来るようになる。この輝いている瞬間に立ち会えるのがやりがいです」
「上から目線で教える人が多い。できないことを認識してやらせる。そして何を褒めるか何を怒こるかの基準が大切です。教える側はできて当たり前。そこから判断するのはおかしい。できない子が次の日どれくらいやったか、その子のレベルまで自分が目線を下げて指導する」
当時のダイヤモンドダイニングは飲食店経営のノウハウが少なかった。薬師寺氏はオペレーションのマニュアル化に貢献した。現在の同社のスタンダードは彼が作った。
スタッフに教える。「お客様を待たせない。待たせたらお客様は何て思う? お客様からの評価が判断基準。僕らが考える言い訳的なことはお客様には一切通用しないよ」
「シルバーをピカピカにすることは作業に過ぎない。しかし、スプーンの先にお客様の顔があって、汚れているのものを出すとお客様はどう思うのか考えろ。それを考えることは作業ではなくサービスだ。トイレ掃除もしなさいではやったということだけ。お客様の気持ちで、ここに雲りがあったら不快に思うよね。飲食は体力、忍耐力・洞察力が大切。特に洞察力を学べばあらゆる業態に対応できる社員がアルバイトスタッフに教えていきたいです。全て、お客様の視点から落とし込むと作業が作業でなく、すべてサービスになる」
「バンパイアカフェ」(東京・銀座) 2001年6月オープン
「パトラッシュ」(神奈川・ラゾーナ川崎) 2006年9月オープン
「波平」(東京・恵比寿) 2007年6月オープン
「風芽車」(東京・渋谷) 2007年7月オープン
「九州黒男児」(東京・新橋) 2007年7月
「土の実」(東京・銀座マロニエゲート) 2007年9月
「個室之夢 一寸法師」(東京・立川) 2008年2月オープン
「銀座樽丸」(千葉・スーク海浜幕張) 2008年3月オープン
・DDは自分の生きる舞台を用意してくれる会社
「迷宮の国のアリス」店長から、銀座のエリアマネージャー、営業本部長とポジションが上がり、現在では薬師寺氏の下に統括部長2名、エリアマネージャー7名が控える。店舗に顔を出すことが減り、部下を通しての組織的な店舗指導を行っている。同社に入社して丸4年が経つ。
「ユージーの時代も含めて走り続けてきました。今は独立に対する興味は余りない。企業の中で自分を試せたり、組織を作る方により興味があります。僕は命令されるのが好きなタイプです(笑)」
「ダイヤモンドダイニングはベンチャー企業。自分で店をプロデュースしたい、独立したいなど意欲的な方々が入社してくれています。ベンチャーは野心がないと続かない。10年後もいたい、いれるような企業になりたいです」
「松村社長を始め皆、好きな仲間です。一緒にチームとしてやっていきたい。企業の成長と共に自分も成長するのは独立したら味わえない。企業では大きい組織を作ることができる醍醐味がある。ダイヤモンドダイニングは自分が生きる舞台を用意してくれている会社です」
最後に、組織を維持するコツを聞いた。「上からプレッシャーを与えられます。自分が耐えられないと、そのまま同じプレッシャーを下に与えてしまう。すると下の者は耐えられない。僕は社長の言ってることを咀嚼して下に伝えるようにしています。それをエリアマネージャーや店長にも実践して欲しい。それには精神的強さ、責任感が必要です。そしてユーモア。営業会議はピリッとしても会議を離れると冗談を言う。ストレスを逃がしてあげる工夫も必要です。」
「中にはストレスを貯める人もいる。僕らがアプローチして逃がしてあげる。例えば飲みに誘ってあげる。飲食がいいのは勉強を兼ねて飲みに行けることです。下の者へも勉強だからと言って連れて行く口実にもなり、そこで彼らのストレスも解消してあげれるんです(笑)」「いちベンチャー企業が大きな組織に変化していく中で自分達に求められるのは変化していく中で自分達に求められるのは変化に対応できる順応性。ダーウィンの言葉で‘強い者や賢いものではなく、変化するものが生き残れる’が僕の座右の銘です。」
「100店舗 100業態」を2011年に達成することを目指して、走り続けるダイヤモンドダイニング。その屋台骨を支えるのが薬師寺氏。会社、そして組織を大きくすることが彼の喜びだ。