・遊びながら働きたい
田嶋氏は東京・渋谷で育った。料理を手伝うのが大好きで、小学校の卒業作文に飲食の仕事がしたいと書いたという。高校は世田谷区代沢にある駒場学園。食物科があり調理師免許が取れるユニークな学校だ。卒業生は一流ホテルなどに就職していく。彼は製粉会社が直営する広尾のスパゲティ店に就職。
「時代は洋食。洋服も好きで周りに洋服関係者が多かった。アメリカブームです。渋谷の洋服店『バックドロップ』が全盛期。雑誌『ポパイ』ではアメカジ特集。そのモデルが先輩たち。仕事が終わっても遊びに行ける場所で働きたい」と就職先を選んだ。『ポパイ』は当時、アメカジを紹介し若者のファッションリーダーとなっていた。
「広尾はかっこよかった。聖心インターの子が遊びに来たり、外国人が集まったり、広尾は華やかでした」と2年半働く。フライパンでスパゲティを炒めて、フライパンのままアツアツでお客に提供する店だった。
次に働いたのが、「ファラフェル」というユダヤのサンドを売っていた店。ひよこ豆を潰して様々なスパイスと混ぜてコロッケのように揚げる。それと野菜をピタパンの中に入れ上からゴマのソースをかけるサンド。肉を一切使わないベジタリアン向けフード。
「そこは駐車場の一角で馬車を改造した屋台のような店。テイクアウト専門で、夏は外で、冬はテントを張って食べさせた。入口に花屋の露店もあった。面白いと思い遊びに通っていたらオーナーと仲良くなりました。いっしょにやろうか、と意気投合し、姉妹店の目黒も合わせて2年半働きました。そのオーナーは『ポパイ』の創刊当時にロスでコーディネーターをやっていた方。車やバイクが好きで、遊び人たちの先生みたいな人です。ファッション業界関係者のたまり場になり、遊びながら仕事ができました」と若い田嶋氏にとってはあくまでも遊びが中心だった。
その後、何とプロダンサーに転向する。アルバイトで食いつなぎながら、1ステージ1万円でバックダンサーとして踊っていた。8年間も続けたという。そんな遊びの経験と人脈が後のカフェ作りに生きてくる。
・初代「WIRED」から「SUS」誕生へ
飲食の世界に戻ろうと思っていると、飲食店を始めようとしていた日焼けサロンの会社を友人が紹介してくれた。そして出来た店が「ニューズデリ」。ショーケースに沢山の色とりどりの惣菜を並べて人気となったカフェだ。
表参道交差点近くの日焼けサロン会社の自社ビル1階にオープン。それが繁盛し、2階も「ニューズデリ」に変わった。オープンから半年は厳しかったが、お客が入り始め、ショーケースは当初の2本から徐々に増え4本にまで拡大した。
その後、カフェ・カンパニー社長の楠本氏とそのパートナーだった入川氏(現 入川スタイル&ホールディングス株式会社
代表取締役/チーフプロデューサー)、両者から渋谷キャットストリートで仕掛けていた店の立ち上げに誘われる。その後、渋谷の線路沿いの「WIRED
DINER」にて、田嶋氏は店長を務めた。
2001年には、コミュニティ・アンド・ストアーズ(現 カフェ・カンパニー)の第1号店である、カフェ「Planet3rd」、テイクアウトデリ「Lunch
to go」、バーラウンジ「secobar」の3店舗の複合業態である初代「SUS(Shibuya
Underpass Society)」を渋谷の東急東横線高架下に出店する。高架下という場所柄、柱が沢山あり、真ん中の1区画10坪は3店舗のセントラルキッチンを兼ねた「Lunch
to go」にした。ここでは、昼のお弁当を売ったり、隣に作った「Planet3rd」や「secobar」に料理を提供するなど厨房としても機能した。
初代「SUS(Shibuya Underpass Society)」
「僕は地元なので、ここは人が集まるなと思いました。小さいオフィスが沢山あってこの店で打ち合わせしてくれると。学食みないな感じの店です。いろんな場所で打ち合わせができたり食事ができたりする。半年間は何屋だろう?とガラスから皆、ジロっと覗いていく。でも入ってくれない。こうやって使っていいんだと分かってから、ようやく人が入るようになりました。渋谷に遊びに行くのに、待ち合わせで使われたりもしました。本当に軌道に乗るまで1年くらいかかったんです」
「皆のたまり場になって行きました。『secobar』は上手い使い方が見えず、昼は会議スペース、夜はライブにしました。やんちゃなことをやって皆が面白がってくれました。遊び人が来てくれるようになったんです。遊び人のバーとカフェがごっちゃになって何なんだこの店?って感じです」
現在のカフェ・カンパニー社長、楠本氏との出会いは原宿の「ゴーゴーカフェ」のプロデュースの時。 田嶋氏は、当時、楠本氏と入川氏が率いていた原宿キャットストリートでの飲食・設計デザインのチームに参加する。当時、飲食と住宅設計の2つの仕事があり、飲食は楠本氏が担当し、住宅は入川氏が担当。その後、飲食と住宅で会社を2分し、主に飲食部門が楠本氏を社長として、コミュニティー・アンド・ストアーズ(今のカフェ・カンパニー)が2001年に設立された。
・楠本社長の言葉で皆に分かりやすく伝わる
田嶋氏の現在の役職は企画開発部部長。
「何店舗作るというより、仲間が集まって仲良くしたいなと思います。いい子が集まってくるから、店舗を増やさなきゃいけない」と人ありきでの出店がカフェ・カンパニーの基本だ。
最近は商業施設への出店が多い。その契機は大宮ルミネへの出店。これが成功し商業施設からの出店がどんどん広がる。大宮ルミネ店は4月で5年が経過。今も売上は少しずつ上がっている。契約の延長も決まったそうだ。競合の激しい商業施設で5年を超える店舗は珍しい。
物件を紹介され、まずは現場を見に行くことから始まる。感覚的に行けるかどうかの判断をすると同時に、『その街がどういう街で、どんな店があって、そこにはどんな人々が生活しているのか』を深く見て、それに基づき収支予測を出していき、それを元に、何をやるかを皆で議論して方向性を出していく。
「楠本は自分も含めて、意見あるメンバーがやりたいことを理解してくれる。そして、それを具体的事業プランにしてもらえる人です。僕はアイデアだけは持っているが言葉にするのが苦手。一緒にやっててよかったです。感覚を大切に育てつつ、皆に分かりやすく伝わっていきます」
「どいちゃん」吉祥寺店 毎年開催される書き初め大会
店内中に書き初めが飾られる
・店の子が主体になって、いいものを広めたい
「今は組織だが、個人商店的ないいところもあります。アルバイトも増えている。長くいる子が多いんです。質のよいサービスをすれば売上もついてくると思っています」
店長会議では個々の成績を発表するだけで、皆の前で成績の悪い店長を責めたりしないという。
「店長会議ではこんなことをやったら、こんなことになりましたよと発表してもらう。目標に達している店舗でも、なぜ達成したのかが大切。成績の悪い店長は自分たちで何とかしないと、という意識が芽生えます。皆の意見を取り入れやってみようかと思ってくれる」
「赤字店は赤字だから店長を変えることはしない。あなたは出来ないから駄目です、とは言わない。こうすれば、ああすればとアドバイスしてあげる。赤字になってからも半年以上見続けます。1年間通して見ないと分からないこともあります。それでもダメなら、その店舗を見続けさせるSVとしてその店も見つつ他の店も見させる。ダメだというよりもう一度勉強させる。または、経験豊富な店長の下に付ける」
それは、2006年に復活させた渋谷・宮益坂上の「SUS(Shibuya Universal Society)」は自分通りのイメージになるのに1年半かかったそうだ。昨年11月の1周年で、スタッフ皆で主催したパーティーをやりました。それをきっかけにいい店になってきた」
「以前は独立も考えていました。でも今は全く考えていません。個人でやっていると限界があります。新しい店が作れて、自分の言ったことが形になるのに魅力を感じています。今までは遊びに行くだけだったのに、今は遊ぶ場所が作れることが楽しい」
「僕は寂しがり屋で、人が好き。集まって何かするのが自分の喜びです。東京ミッドタウンの『A971』ではDJやイベントを僕が主催してやっています」
ライブペインティング@A971
「お店の子が主体になっていいものを作って、それを広めていけたらいい。例えば、『RESPEKT』には広告塔になっている子がいます。彼女がLEEのウガンダのオーガニックコットンを使ったジーンズのイベントの話を持ってきました。売上の2%かをウガンダでの井戸掘りに寄付する内容です。スタッフがやりたいと言い出したので店も協力しました。原宿、渋谷を2週間ジャックしたイベントです。井戸が3本掘れるほれるくらい集まりました。秋にも第2段を計画しています」
「RESPEKT」で行われた、LEEのイベント
「RESPEKT」で行われた、LEEのイベント
気の合う仲間で集まってイベントを仕掛けるのが大好きな田嶋氏。「CAFE」=「Community
Access For Everyone」、皆が集まるコミュニティの場。そんなカフェを作ろうとするカフェ・カンパニーのコンセプトそのままだ。