・北海道の町興しで東京へ
工藤氏の実家は北海道網走に近い上湧別町で建設業を営んでいる。上京したきっかけは、町興し。上湧別町の産物を東京を始めとする全国販売ネットを作ることによって、町が潤う。すると、町の人々の住宅の新築や改築が増え、建設業である本業のお客様が増える・・・という、町と建設業の共存共栄が目的だった。
そんなある日、東京で「京都の大徳寺の高僧、立花大亀師と出会い、お話をうかがいました。感動致しました。故郷の上湧別の人たちと、この感動を共有したいと思い、その場で上湧別に来ていただくことをお願い致しましたら、即決してくださいました。しかし人口5000人の町で何人の聴衆を集められるか・・ご老師様に失礼では・・・とお聞き致しましたら『あなたみたいに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして真面目に聞いてくれる人々が5人でも10人でもいたら行きますよ。』とおっしゃって下さいました。」と工藤氏。
実際には、町を上げての集客で隣町も含め5百人もの人々に集って頂いた。その縁で、立花大亀師が後見人として、工藤氏の東京とのパイプ役を果たしてくれる。
「ご老師はイノシシ年、私をご老師にご紹介くださった方もイノシシ年、私もイノシシ。イノシシが3人集まるとその事業は成功すると言われました。ご老師が若手の陶芸家を育てておりましたので、その作家の方達の常設店として東京・南青山の小原流会館に「陶房・一枝軒」を開業するチャンスをいただきました。そうそうたるお茶会でご老師のカバン持ちをさせていただいた事は、私の人生にとってとても有意義なことでございました。その後、全国のデパートで陶芸家の展示会を行う機会に恵まれ、各界の名士とのご縁を頂くことになったのでございます。」
これが、現在の工藤氏の幅広い人脈の基礎となっている。
・レデイス・キヨスク「五丁目花子」開店
町興しの産物を「全国に6千店舗以上のキヨスクを展開している、鉄道弘済会にご紹介を頂き営業に参りました。各店で1日1個売れれば、全店で6千個。上湧別の年商が35億円位は増える・・・とも思い、アタッシュケースいっぱいに詰まった我町の産物が如何に美味しいか・・・を力説致しました。『情熱は分りましたが、鉄道弘済会は来年4月には5つにわかれて株式会社になり、民営化されるのです。産物は落ち着いてからにして、まずは、株式会社になるに当り、女性としての視点からみての提案を頂きたい。それが我社にとって画期的な企画であれば、今後いっしょにやりましょう』と言われました。そして、キヨスク観察が始まります。」
「駅で切符を買うお客様の3分の1強が働く女性。それなのに、キヨスクは旧態依然として、たばこ、新聞、男性雑誌しか置いていない。これではこの時代にそぐわないのでは…。世の中は、セブンイレブンを見ても、男女問わず気軽に買える時代なのに、キヨスクは何故働く女性を意識した商品を売らないのかしら・・・と思いました。」
そして、提案致しましたのが、レデイス・キヨスク。企画書はA4の紙たった1枚。
「書くことがございませんでした。もう一枚にお店のイメージとしてリンゴの絵を知人に描いてもらいました。アダムとイブのリンゴから発想したものです。芯の部分がネジになって上部がくるくる上がり、下部がカウンターとなる。営業終了すると、閉じて1個のリンゴになるというアイデアでした」
レデイス・キヨスクの企画が決まり、大宮駅でテスト店がオープン。店名は、ペッカリイの事務所があった南青山5丁目と女性の代表的な名前をミックスさせて「5丁目花子」。大手メーカーの協力を得て、口紅やストッキング、生理用品、剃刀、ハンカチなどのオリジナル商品を沢山並べた。1坪で1日20万以上売ったそうだ。ちなみに、店舗デザインはリンゴではコストが高いと却下され、ガラス貼りの四角い店舗で、外から商品が見え、買う際には中に入るという構造となった。女性は対面では恥ずかしい場合があり、買う時は中に入って頂くことがポイントだった。
そして、ついにレデイス・キヨスク「キヨスク・ファム」が渋谷、新宿、丸の内に。「レデイス・キヨスク」を鶴見、品川などに。そして営団地下鉄なども含め12店舗を完成する。何年か商品企画と運営をお手伝いした後、JR側に引き渡した。レデイス・キヨスクのアイデアウーマンとしてマスコミ取材が殺到し、工藤氏は時の人となる。
・JRと外食展開
JR東海が横浜本牧にビルを購入した。しかし、バブル崩壊でテナントがまったく入らず、工藤氏に相談が求められた。
「ロサンジェルスのディズニーストアが東京に出店したがっている、という情報を知人から聞きました。日本では買えない、全てアメリカのオリジナル商品です。その1号店をもってきたら絶対に当たると思い、ロサンジェルスに飛びました。情熱を身振り手振りで説明するとトントン拍子に話が進み、出店を獲得できました。オープンしてみると、1日目売上1千万円、2日目9百万円、3日目8百万円と大成功でした。」
このことが切っ掛けで、JR東海との間に深い信頼関係ができあがり、JR東海の外食事業の進出に協力することとなる。JR東海には、オン・レールとオフ・レールという言葉がある。この時JR東海は、オン・レールと呼ばれる駅構内の施設への出店だけではなく、オフ・レールと呼ばれる街場への出店を目指そうとしていた。
工藤氏が街場で見つけた物件が、東京・築地の聖路加タワーの47階。それが、夏季は高層ビアテラスとして人気の「レストラン ルーク」。JR東海の子会社が経営し、企画運営をペッカリイが担っている。これが、同社初の外食。1993年。
「レストラン ルーク」 店内。聖路加タワーの47階だが、外のテラスで出ることができ人気。
「レストラン ルーク」 料理
これを機に、外食事業が拡大していく。自分でレストランをやろうと思ってやったわけではなく、人の縁で引き取ったものが多い。
日本リースが経営していた5店舗の売却先を探していた際、銀行経由で頼まれて3店舗を1997年に買い取る。現在のポルトガル料理「ヴィラモウラ」、カラオケレストラン「銀座パンドラ」、居酒屋「集楽」の物件だ。
茅場町にある「集楽」店内。2008年3月にリニューアルオープン。
「集楽」料理
ポルトガル料理の4店も縁。銀座の店舗の業態で悩んでいた時、ポルトガル料理店の経営者と出会いコンサルティングを依頼。この銀座の店をポルトガル料理「ヴィラモウラ」に変えた。3年経つが、今だに前年売上を越え続けている。2006年、初台・オペラシティに「アルテヴェルディ」。2007年に高級ブティックが入る表参道・GYREに「ペローラ アトランチカ」。そして2008年、赤坂サカスに「カステロ ブランコ」と次々出店していく。工藤氏は「特に、ポルトガルに固執していたわけではなく、ポルトガル料理を得意とする素晴らしいプロデューサーと巡り合ったからにほかなりません」という。
・飲食のプロではない、プロにもなりたくない
「つい1年前までは、現場に入りました。洗い場、掃除、何でもやります。なぜ売れないかを考える時、現場に入ってないと分からない事が多いのです。レデイス・キヨスクの時も売り場に入りました。例えば、雨が降ると1日60〜100万円分の傘が売れます。100万円売る仕組みを考えました。常に何ケースをストックすべきか、緊急時に仕入れ先からどのタイミングでお店に入れてもらわなきゃいけないか。また、レジ打ちをしているヒマもないので、まとめて打つと、そこで不正が起こる可能性があります。こういうことは、現場に入ってみて始めて解る事も多いのです。でも、プロになろうとは思いません。」
工藤氏は今、61歳。その年齢には見えず、エネルギッシュ。しかし、子供もおらず、会社の将来を考え始めたという。
「今、61歳です。どうすれば幸せに引退できるかを考えています。弊社の店は、レストラン、ダイニング、ステーションの3つの柱に分かれます。『マ・シャンブル』や『レストラン ルーク』というレストランは、1店で3〜4億円売るので小さな会社に匹敵するほどの規模といえるでしょう。支配人をトップに据えてもよいのかも知れません。ポルトガル料理などのダイニングは、それを得意とする人がグループ長として運営すればよい。『ファーム』や『エニータイム』などのステーションは、新たなFCを含めたグループとして展開をしたいとも考えております。」
六本木一丁目、泉ガーデンタワー3Fの「マ・シャンブル」バーカウンター
「マ・シャンブル」店内
「マ・シャンブル」料理
「創業者とまったく同じ考えの2番手が入社することは難しいことかも知れません、仮に入社しても、自らの夢を求めて独立するでしょう。創業者が選ぶ2番手は、ある部分に特化した者になる様ですが、それでも良いではありませんか。足りない部分は3番手・4番手と協力し、また外部の知恵をお借りすることもあるでしょう・・・。でも今、私にとって大切なことは、後事を託す者の得意とする事業を見極め道を開いてあげる事だと確信致しております。その結果、今最も力を入れているのが、FCなのです。」
・FCでは100億円を目指す
今期のペッカリイの売上高は約23億円。全13店なので、平均すると1店舗あたり1億8千万円と大型。経常利益は5%程度としっかり利益も確保している。
過去3年間は苦しかったという。横浜みなとみらいで運営受託していた260席のフレンチの撤退。駅の改装によるステーション大型店舗の一年休業等から大幅な売上ダウンなども経験した。
「経営者は大変な時に力を出せるかどうかだけ。いい時はいらない。大変な時にも出店を止めない。止めると次の大変な時を乗り切れないと思うから」
「会社をどうやって引き継ぐべきか。会社を売る気は全くありません。株式公開も自分の財を築く為だけなら不要です。社員の皆が株を持って、3つの柱の内、ここのグループは上場した方が利用して頂くお客様を含め全ての人々が幸せになれると思えばしたらいい。でも私は飲食という業態は、原則上場すべきでないと思っています。」
「FCは新しいブランドを持ち、これから売上100億円を目指しますが、FCは公開してもいいと思っています。」FC展開する外食企業からも、人材を積極的に受け入れている。
・「残される企業」になりたい
「ある時期までは工藤商店だったのです。横浜みなとみらいの運営を受けた時、ふと気が付くと社員が100人になっておりました。皆、家族もいます。私が引退してこれで終わりですでは、彼らはどうなるんだろうと思いました。社員がいたいだけいれる企業にしたい、どうしたらいいんだろうと考えました」
「ある日、テレビのインタビューでソニーの新入社員に、なぜソニーを選ぶのかを聞いていました。『ソニーに入ったら必ず自分の夢が語れる。自分の夢が現実になる可能性がある。だからソニーを選びたい』と彼が語っていました。」
「ある会合で、盛田さんにお会いして、どうしたらソニーのようになれるのかを聞きました。『けっこう大変だったよ。設立当初のころは、松下じゃないんでしょとよく言われた。何それ、と言われた時期もあるが、とにかく、夢を追いかけ頑張ってきた。だからそうなった。工藤さんも社員と一緒に見れる夢と目標を求め続けることが大切だよ。』と励まされました。それで、頑張ってみようと思い今も努力をさせて頂いております。」
今、工藤氏が社員に伝えるのは、「残される会社になろう」ということ。
「残される会社とは社員の夢や人生観と、会社の夢や人生観が70%以上同じ。長い時間仕事をしていても気分がいい。そうするとその気分がお客様に伝わり、お客様も心地いい。それが残されること。」
働く環境も整えている。
「飲食業は束縛時間が長い。途中2時間休憩しても、長い時は10時間の労働です。ですから弊社は公休を取ることは必須。次には、お客様に迷惑をかけずに有休を取ること。それにはスタッフの能力アップをしていかなくてはなりません。人事部は、最善を尽くして徹底しております。原則、本部が7日休めて現場が7日休めないというのはやめて欲しいと言います。全員が公平に休みが取れて、利益があがる構造ができたら、きっと業界の指針になれるでしょう。そうなれるよう頑張ろうよ、と話しています。」
工藤氏は、FC事業を作り育て後継者に託し、その後、健康で素敵に年を取ることをテーマとした新たなビジネスプランを持っている。いつまでも若々しい企画ウーマンだ。