フードリンクレポート


第4回居酒屋甲子園の新理事長。
エントリー数1103店舗、5割増を達成。
高橋 英樹氏
NPO法人居酒屋甲子園 理事長 兼 株式会社夢笛 代表取締役社長

2009.5.15
1103店舗のエントリーを集めた、第4回居酒屋甲子園。前回の770店から約5割も参加店が増えた。大嶋啓介氏から引き継いで、今回新理事長となった高橋英樹氏の功績は大きい。8/19のパシフィコ横浜での決勝大会に向けて、全国に作った勉強会を飛び回る高橋氏の魅力を探った。


居酒屋甲子園セミナールームにて、高橋英樹氏。

恩師とともに福山で“夢笛”を立ち上げた

 高橋氏の実家は福岡市。母方の実家が業務用酒販店で、夏休みには飲食店への配達を手伝うなど、小学校時代から商売人に憧れて育った。高校を中退し、15歳で家を出て、大阪・神戸の料理屋を10年間転々とし、板前の修業に就く。

「中学の時も『餃子の王将』でバイトしました。中卒で遊ぶし、出て行けと親に言われ、板前を志した訳じゃないですが大阪に修行に行き、楽しかったです。料理を作るのが好きな自分を再発見しました。給料は安かったですが、先輩に連れて行ってもらっていいものを食べましたよね。大阪のようなエネルギッシュな街が大好きでここで頑張ろうと思いました。一緒に働いている人も尊敬できる人ばかりだったので、俺も変われるんじゃないかなと思いがむしゃらに仕事しました。オヤジさんにかわいがってもらって、いいところばかり担当させてもらいました。」と高橋氏。

 その内、料理だけじゃなく経営をやってみたいと思い始める。

「自分ひとりの力では自分の思い通りにならない。自分の料理で勝負してみたいというのがありました。実家のある福岡に早く帰って自分の店を持とうという思いで一杯でした。」

 24歳で中卒の高橋氏を最初に雇ってくれた会社の専務に誘われて、一緒に広島県福山市で外食企業を立ち上げる。それが、1994年設立の有限会社夢笛コーポレーション。

「自分が商売をしようと思った時に、15歳で初めて働いた会社の専務が広島の人。広島で会社を設立するから手伝ってくれないか、と言われました。当時、何十件も断られ、その後で拾ってくれた専務がやるというので恩返しです。広島なら福岡から近いし、3年ほど手伝いますわ、と合流しました。」


創作料理でトントン拍子に成功、しかし

 1号店「そしある酒場夢笛樓」を94年5月に開店。1年も経たない95年4月には、2号店「串BAR北口店」を出店した。


「串BAR」 外観。


「串BAR」 店内。


「串BAR」 一日30本限定の『てこねつくね』420円。


「串BAR」 深夜23時からの限定メニュー『鶏極味 夜鳴らうめん』580円。

「会社を立ちあげたらいい感じでドンと行きました。1号店は創作料理の走りです。当時の福山は、『養老の滝』や屋台村の時代で、少し遅れていました。大阪でやってきた料理がマッチしました。次の串BARも大当たり。直ぐにFCの申し込みが来ました。他人にFCをさせるくらいなら社員を独立させようと、半年後に専務が社内独立で串BARの2号店を作りました。トントン拍子です。」

 串BARが4店になり、2000年4月に「夢本陣」という料理屋をオープン。ここから流れが変わる。

「『夢本陣』を作ったころからおかしくなってきた。土地建物を買って建てたのです。自分たちの身の丈に合ってないものに手を出し、ここが苦戦の始まりです。会社で大きな借金を抱えました。」


「夢本陣」 外観。


「夢本陣」 個室。


「夢本陣」 おせち料理。

「次にやってきたのが、道路交通法改正。郊外店が悪くなりました。月商800万円くらい売っていた串BARを社長が勝手にラーメン店FCに変えたんです。ラーメン店の方が郊外でファミリーも取れると思ったんです。でも、全国統一価格で福山では高い。800万円の串BARを2600万円掛けて、400万円売れるラーメン店が出来ました。悲しいかな、それがウチの10周年。ここから、人を育てる経営から、お金お金の経営に変わってしまいました。」


社長として再建

「社内からも不協和音が出ました。僕は役員だったので1年間は働くが、来期の10周年には独立させて下さい。と言いました。ラーメン店FCを取ってきて『後はやれ』と言うような社長と専務の言葉を信用できません。とも言いました。FCオープン時には、厨房にも立ちましたが幹部からは、誰も来てくれなかった。新年の全体会議で、今期一杯で退社します。と宣言しました。すると、当時の店長が全員辞めると言いだした。僕と一緒にやりたいと言ってくれた。そして、社長があわてた。お前社長でやってくれんかと、言われました。当時売上3億円弱の会社で在るにもかかわらず、社長がいて、副社長、専務、常務、取締役料理部長の5名、僕は営業部長とすごく頭が重たい会社。いくら売ってもダメだと思い、辛かったが僕が社長をやるなら退いてくれと副社長と専務と料理部長の3人は退社してもらいました。」

 2004年7月に社長就任。FC店舗は友人に売却。「夢笛樓」、「夢本陣」、「串BAR」の3店で再スタートを切った。

「郊外店の売上が悪かった時、ケータリングとバス旅行会社の弁当を営業したりもしました。早朝5時に弁当を作るため、『夢本陣』から歩いて1分のボロの空き家を借りてキッチンだけ作って配達していました。その時、ここを店にしようと思い立ちました。自分の車や生命保険も売却して手元に150万円を作り、これで何とか出来たのが『夢本陣 なごみ』。自分たちで手作りしました。テーブルを買う金がないので家具屋の社長に、『テーブルとイスを下さい、でも今は払えない。ウチで食べて下さい。ウチで食べた分から引かして下さい。』と納得してもらい、2年かかりで返しました。その時の社長は、今だに通ってくれてます。」


「夢本陣 なごみ」 外観。


「夢本陣 なごみ」 店内。


「夢本陣 なごみ」 ぼたん鍋。

 そこが大当たりする。古民家の落ち着く空間で、料理はおばんさいと、鴨、猪、豚料理。客単価4千円と高め。現在は、「魚家 むてき」(「夢笛樓」を改装)、「日本料理 夢本陣」、「夢本陣 なごみ」、「串BAR」、「かしわや 一羽(いっぱ)」の5店を展開している。福山に外の空気を持ち込み、成長を続けている。

「今の店長達は苦しい時を共に乗り越えているから、今でも景気が悪い悪いと言われても気にしません。社内がギスギスするよりも景気が悪い方がいい。ボーナスは今まで2回しか出したことがありません」と結束の強さを誇る。


レインズのパートナーズフォーラムを見て大嶋啓介に合流

「最初は大嶋さんの事が苦手でした。ビール会社の営業の方から『てっぺん』という居酒屋があって、そこの朝礼が凄いんで見に行こうと誘われました。何で東京まで朝礼を見に行かなあかんのやと思いました。店の調子が回復していたころで、東京も好きじゃなかったのでええですわ、と斜に構えていました。ある時、大阪のラジオで飲食店の社長をつなぐ企画に呼ばれて行った時に、大嶋さんが来ていました。『僕は居酒屋が集まって、東京ドームみたいな大きなところで感動が共有できる大会がやりたいです。』と言う。この人は何を言うてるんやろ、でも、面白いなと思って意気投合。手本になったレインズのパートナーズフォーラムをパシフィコ横浜に見に行きました。これは凄いと思いました。じゃ、やりましょうとなりました。」

「最初はレインズさんに混ぜて下さいと言った。でも、僕らみたいな数店の会社を入れてくれる訳がない。じゃ僕らでやってみようと始まったのが、居酒屋甲子園です。第一回は大変でした。僕は西日本のリーダーになり、やるならトコトンやろうと、手弁当で西日本を車でぐるぐる営業に回りました。タウン誌、ビールメーカーの方に電話して飲食店を集めてもらい、店の座敷を借りて、レインズのDVD見せて、これを僕たちやりたいんですと、語って回りました。」


第1回が成功して、天狗になってしまった

「第1回目は236店の参加で、たくさんの店舗さんが集まってくれました。第一回が成功し、メディアにも取り上げてもらい、第二回は739店、3倍にまでなりました。ところが、第二回が失敗。第一回は全員必至でしたが、第二回は全員天狗になっていました。『やるけど、参加する?』という感じです。頑張ったのは大嶋さんのカリスマ性。全員が大嶋さんになった気になり、大きな勘違いでした。第二回は、時間が大幅に延びる、プレゼンテーションがお涙ちょうだいになってしまうなど観客からクレームが最も多かったです。本質を見失っていたのです。私たちはもう一度原点に返り、立て直しをするために第三回まで1年半の時間を置きました。」

「“居酒屋から日本を元気にしよう”から、“全員が有名人になること”が目的になってしまった第二回。第三回で褌を締めようとしましたが、ほぼ第二回と同じ、エントリー770店。リピートに繋がりませんでした。今回、1千店を超えたのは、第三回を皆で作り上げて改善できる体制までできたからです。第4回から参加費を下げよう、サポーター会を作ろう。ご協賛頼りの運営体制からしっかり資金が回る運営も考えよう。やろうとしている志は一緒なので、S1サーバーグランプリさんともコラボもしようと思っています。」

「作った当初から大嶋さんは『2年交代で行きたい、第3回は高橋さんやって下さい』と言われていました。でも、大嶋さんのカリスマ性が必要だったので 大嶋さんに3期やってもらいました。第4回から僕は2年間きっちりやります。大嶋さんの色が強かった居酒屋甲子園を独り立ちさせたいと考えています。」


理事長に就任し、全県で勉強会作り

「地方に力を入れたい。派手や有名になることが優先順位になったらダメ。九州や四国は情報が薄いので、各地に勉強会を作っています。鹿児島で勉強会ができました。宮崎でもできました。各地のリーダーに、一緒に居酒屋甲子園を作りましょうと言い、実行委員を増やしています。今、130人います。せっかく地方から東京に来るなら、居酒屋甲子園のミーティングの時に来てもらい、皆で作る甲子園にしたい。」

 九州では佐賀以外、全県で勉強会が立ちあがり、第4回のエントリーは九州だけで250店を超えている。

「勉強会に呼ばれたら足代だけ出してもらって、大嶋さんや僕が行きます。居酒屋甲子園のメリットや問題を話す。そして、今までは隣同志で仲が悪かった店も一緒にやろうとなる。社員募集しても地方は来ない。やる気のある人は関東・関西に出て、地元に残らない。いい社員も続かない。いい店ができてくれば、地元でも働こうかとなる。」

「大嶋さんが話すとチームワークや共に学ぶということを理解してくれることが多いです。今までは地方は群れず、お互いが競合。それが、共に勝つという理念の下、皆でやっていけることが分かりました。人が集まれば情報が集まってくる。刺激される。自分の店のノウハウを皆の前で話したりしているが、情報共有ができれば業界全体が良くなってくる。大嶋さんは広告塔として活躍してくれています。お陰で、居酒屋は人を大事にするビジネスだということが分かってくれました。皆に褒められる業界になりたい。居酒屋は“でもしか”商売。今後は、ビジネスとしてもやりがいがあり、色んな方々を元気にできたり、食文化を伝えるものに変えていきたい。」

「今39歳です。僕は2年で理事を降ります。僕の代で理事は40歳までと決めようとしています。40歳になると理事からはずれて、実行委員になる。若い人をどんどん入れて行きたい。古い人間がいつまでもいるとやりにくいじゃないですか。ちょうどいいタイミング。そういう風習が出来てしまえばいい。地方でも20代で頑張っている方が一杯います。」


40歳で理事長を退任し、温故知新を実践したい

「飲食店の社長は元気じゃなきゃいけない。トップとしてのカリスマ性が失われていくのは50歳くらいでしょう。会社自体は小さくして、それぞれの店が幹部の会社になったらいい。」

「広島空港の近辺で蕎麦屋をやっています。そこを広げて、宿泊施設があったり、自分たちで味噌や野菜を作ったりできる、大人の屋台村みたいなものをやりたい。地元の高齢者の方に教えてもらったり、絵画や陶芸をしている若い作家が発表する場になったり。ウチの店でも、昼の仕込みの時間に若い作家の作品を飾らせています。見に来てくれた人には、無料でコーヒーやデザートを出しています。遊ばしてる空間なので、できるだけ沢山の方々の作品を飾れたらいいな。」

「好きな言葉は、温故知新。昔を知って、今何ができる。創作料理と一緒で基本ができないと何もできない。基本を知っているから、揚げ出し豆腐に細工したりできる。知らない人間がやると奇抜や派手だが、料理同士で喧嘩します。」

 大阪の料理屋で培った本格的な料理技術に裏打ちされた創作料理で、広島県福山市の外食文化をリードしてきた高橋氏。若い外食人の新しい風をどんどん取り入れた、居酒屋甲子園の新たなステージが始まっている。決勝大会の8/19には、どんな“温故知新”が見られるのか、期待したい。


NPO法人居酒屋甲子園 http://www.izako.org/
株式会社夢笛 http://www.muteki.jp/index.html

■高橋 英樹(たかはし ひでき)
NPO法人居酒屋甲子園 理事長。株式会社夢笛 代表取締役社長。1970年生まれ。福岡県出身。15歳から大阪の料理屋で修行を始め、1994年に有限会社夢笛コーポレーション設立のため 先代社長と共に福山に。2002年、株式会社夢笛に組織変更。2004年、代表取締役社長に就任。NPO法人居酒屋甲子園の設立時から関わり、2008年9月に理事長就任。

【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2009年4月24日取材