・当時の人気アパレル企業の新事業として誕生
「スコッチバンク」を生み出したのは、市原氏の父、市原忠氏。70年代の六本木で生バンドをウリにした「クレイジーホース」や「テニスクラブ」といった人気店をプロデュースしたヒットメーカーだ。
その市原忠氏が、石津謙介氏が率いトラッドで一斉風靡したVAN JACKET系列のshop&shopsの社員として生み出したのが「スコッチバンク」。サントリーの佐治敬三社長が、石津謙介氏にウイスキーを美味しく飲める店を作るよう依頼されたのがきっかけ。1号店は大阪。人気は爆発し、原宿、そして銀座、札幌、仙台と展開し、ボランタリーチェーンとして全国で10店舗以上出店した。
「スコッチバンク」のプロデューサー 市原忠氏。
60年代後半から70年代の前半は、ウイスキーは高価なもの。佐治敬三氏、石津謙介氏を始め当時の日本経済を代表する人々の集まりで、もっと安く飲める店を作ろうという話が持ち上がり、「酒はサントリーが用意しろ、箱は俺が作る」(石津謙介氏)として大阪で作った。当初は「大英銀行」という名。銀行をモチーフに、金庫室に宝物であるスコッチをしまっておき、お客様には金庫室のカギを渡そうというアイデア。しかし、国から銀行の屋号にクレームが付き、「スコッチバンク」と英語に変えたという逸話が残されている。
内装には当時の坪単価で日本記録となる坪100万円を掛け、VAN JACKETの威信に掛けた店つくりをしたそうだ。VAN JACKETは飲食事業を子会社shop&shopsに任せた。白羽の矢が立ったのが、当時のヒットメーカーの市原忠氏。英国でパブを視察してコンセプトから「スコッチバンク」作り上げた。
当時を知る人からこの逸話を聞いた市原克俊氏は、「父はスコッチバンクの立ち上げに最も貢献した人物だということも実感することができ、改めてこのブランドを復活させなくてはならないと志を新たにしました」と言う。
「スコッチバンク」は、店内はソファ席が並ぶラウンジになっており、1日に何度も演奏される外国人生バンドの音楽をゆったりとウイスキーを飲みながら聴く。ウイスキーはボトルキープ制。キーホルダーとしても使える真鍮製のカギがキープの証となっており、ステータス感がある。
ボトルキープの証のカギ。
ボトルキープ棚。
バブルの崩壊とともに、shop&shopsはカネボウに買収される。外食事業に興味の無かったカネボウは「スコッチバンク」を縮小させていく。60歳で定年を迎えた市原忠氏は1974年に開店した「スコッチバンク」仙台店をオーナーから92年に買い取り経営を続けた。
他店はウイスキーではなく焼酎や日本酒を置き始めたり、生バンドもカラオケに切り替わるなどして、コンセプトがぶれ衰退した。仙台店は開店から30年以上同じフィリピン人のミュージシャンがおり、音楽のクオリティが高く生き残った。60席で一時は年商1億2千万円あった。今は8千万円に落ちているが30年間以上も利益を出し続けている。内装のリニューアルは行っていない。
「スコッチバンク」仙台店 奥がステージ。
店内。
モルトが並ぶカウンター。
・ベンチャーリンクで外食を学ぶ
市原氏は父親に連れられて、高校時代から「スコッチバンク」に出入りし、将来は自分も外食で独立することを夢みていた。そして不動産販売会社の営業マンとして休日もなく働いていた時に、父から仙台店の立て直しを依頼される。
「父から、『売上げがやたら減ってどうもおかしい。行ってきてくれ』と言われました。不動産販売も辛かった。どうせ将来自分が見る店じゃないかと思い、店長代行で1年間、仙台に行きました。そこで店長がベンツに乗っているのを知った。1回30〜40万円あるパーティー売上が計上されてなかった。状況証拠を固めて店長の首を切ったら、一気に売上が回復。彼らの王国になっていたんです。その後、イベントを企画したり、バンドとも仲良くなりさらに売上げが上がりました。お客様のボトルを覚えていて出すと喜んでくれました。飲食の面白さを知りました」と市原氏。
そして、1999年に平成不況の真っただ中、“第二の創業期”と謳い外食のFCファクトリー事業を立ち上げようとしていたベンチャーリンクに入社。
「仙台店の立て直しで自信がついたとは言え1店だけ。もっと勉強しようと、初心者でもSVにしてくれるベンチャーリンクに入りました。担当するFCブランドを選べることになり、タスコシステムを選びました。創業者、高田貴冨氏のインパクトが強烈でブルッときました。アルコール比率の高い業態で勉強したかった。また、スコッチバンクではサントリーさんにお世話になっていたので、同じサントリーさんと契約する企業ということで親しみも感じました。」
「当時の加盟店はわずか12店。東京のFCの8割が赤字でした。そして、半年で全店を黒字化でき自信が付きました。SVには2種あります。モチベーション派SVと理論派SV。僕は両方。理論で始めて最後はやるしかないでしょ! ベンチャーリンクの凄かったのは、意思決定者であるオーナーを必ず巻き込めという所。何で売れないのかを事細かに分析し、FLのコントロールを徹底、売上げ拡大とサービスのバランスをどう見るか、それぞれ優先順位を決める。10店の内まず2店を集中特化するとか、オーナーにこう動いてもらうとか、クオリティを高めるために本部の人を呼ぶとか。」
「牛角のSVの間で始まったベンチマーキング会議も使いました。実績の良い店舗の店長を集めた情報共有会です。数値目標の具体化を徹底的にやらせた。ベンチャーリンクは販促プランやイベントも物凄いノウハウを持っています。高田屋はどんどん良くなっていきました。高田社長からもようやく市原君と呼ばれるようになった。」
そして、「とり鉄」「枡屋」「暖中」の立ち上げに関わっていった。
・タスコFCとして独立
「タスコがベンチャーリンクとの契約を見直そうとしていた時に、高田社長から呼ばれ、『いつ君は独立するんだ?店を貸してやる、人も貸してやる』と口説かれましたが首を縦に振りませんでした。しかし、不採算店の立て直しで実績を作り、これで独立しなきゃどうすると思い直し、タスコFCの中で店舗を売りたがっているところを探しました。」
そして、「高田屋 秋葉原昭和通り店」と「とり鉄 錦糸町店」の2店を知り合いの不動産業者と金融機関から6千万円を借り入れて買い取り、2004年3月にマークフィールドを設立した。そして、レンタルや買収により、FC事業は現在「高田屋」4店、「とり鉄」2店を運営している。さらに仙台の「スコッチバンク」を父親から買収。
「FCで地盤を固めてから直営をやろうと思っていました。直営で失敗しているのを見てきたから。FCはタスコブランドに関しては知り尽くしている。1回くらいこけても大丈夫な店舗数にしてから、父からスコッチバンクを買収しました。スコッチバンクの商標権を調べると、破綻したカネボウから自立再生の道を歩んでいるshop&shopsが所有していることが分かり、2006年に譲ってもらいました。スコッチバンクを絶対に東京で復活させようと決意しました。」
・ダイヤモンドダイニングとのコラボ
「通り掛かった際、とり鉄から業態が変更されて、随分はやっている『三年ぶた蔵』という見慣れない店を見つけました。確かめると、とり鉄渋谷店をダイヤモンドダイニングがレンタル。とり鉄時代の2倍以上売っていました。」
「FCでロイヤルティ5%を払い続けるのは先々は良くない。しかし、直営は難しい。接客には自信がありましたが、メニューや箱作り、雰囲気に自信を持ってやらないと絶対に上手く行かない。ソフトは遊び人じゃなきゃできない。ただカッコイイだけじゃだめだし、何かひきつけるものがいる。」
「3年ぶた蔵」の集客力に興味を持って、ダイヤモンドダイニング社長、松村厚久氏に会う。
「売上は凄いが、食べに行っても普通。何で流行るんだろうと思っていました。松村さんは、『全国を股にかけて豚を探すだけ探して究極の豚を集めてあの業態を作ったんです』という。本当ですか?と聞くと、『実は3日で決めました(笑)』という。社員中からネーミングを反対されたが押し切ったそうです。天才ですよね。」
そして、ダイヤモンドダイニングに「高田屋 秋葉原昭和通り店」のリニューアルを任せ、売上を上げた。そして、高田屋を自社業態に転換させた日本橋の「黒瓢箪」、浅草橋の「炭金」もダイヤモンドダイニングがプロデュースした店舗だ。「炭金」では売上が以前の1.5倍にも上がっている。
「僕が欲しいのは 箱とかアイデア。ダイヤモンドダイニングには感謝しています。施工管理もしっかりしており、業者への押しが強いのでコストが下がる。プロデュース料も安くてトータルでは自分で作るより安く上がりました。」
・スコッチバンク仙台は、音楽で生き残った
「スコッチバンク仙台店」は30年以上同じミュージシャンが演奏し、音楽が飛びぬけて凄かった。
「バンドの存在が大きかった。音楽なんですよ。美味しいスコッチとボトルキープだけではエンタテイメント性の部分でプラスアルファが足りない。音楽が飛びぬけていた。オールディーズも80年代もリクエストはほぼ全てできる。日本人のバンドだと楽譜がないからできない、これは無理となる。昔の曲ばかりではなく、20%は必ず新しい曲を入れさせる。すると常に新しい曲も勉強してくれる。固定客がついて、国分町で100店潰れたと言われる中でも生き残れています。」
ポール氏は30年以上、スコッチバンク仙台で演奏を続けている。
華やかなステージ。
1日に30分ごとのサイクルで何度も演奏がある。ミュージックチャージ、テーブルチャージ、チャームが各500円で計1500円。ボトルは5300円(バランタインファイネスト、フォアローゼズなど)から。1本のボトルは約3回訪問で消費され、平均すると1回当たり4〜5千円で楽しめる。
客層は40〜60代。組人数3.5人。男女比率は6:4。深夜型で23時以降からお客が入り始め、閉店は2時まで。その間、通常は1.5回転。
「お客様は団塊の世代の方々。青春真っ只中です。お金を持ち、いいお金の使い方をしてくれる。5千円で音楽と食事が楽しめる。高いんでしょうが、クオリティには絶対の自信があります。」
コストはバンドを含め人件費約30%、食材原価は18〜20%に止まる。普段の月商は約650万円だが、クリスマスシーズンの12月には1200万円に跳ね上がる。
但し、難しいのはアーティストの管理。米国人はコストが高く、アジア系は安かろう悪かろう。フィリピンは英語圏だが、ラテンのノリの良さもあり音楽の感性がいいそうだ。
「70〜80年代のジャズもソウルもできる。アップテンポの曲を真剣にやっているところは無い。スローな曲は日本人アーティストでも出来る。カーペンターズ、レイ・チャールス、スティービー・ワンダーが出来るのはウチだけ。」
・イマ風のスコッチバンクで銀座に凱旋したい
仙台で2号店出店の話が出ている。そして狙うのは東京・銀座への出店。その後は、大阪、福岡、札幌と主要都市での出店を狙う。
「クリエイティブな部分を自分は持っていません。大きくなるのに必要なのは、市場を作っていく才能。ゼットン稲本さんは街を作り活性化する、ダイヤモンドダイニング松村さんはエンターテイナーで、どちらも強いものを持つ。ぼくは、昔、素晴らしかった業態を甦らせる。30年前のままでは甦らない。30年以上続いてきたブランドはそれなりの魅力と強みがあるので、それを徹底的にブラッシュアップする。」
ダイヤモンドダイニングの力を借りて、30代、40代前半も来られる店に甦らせたいと言う。キーホルダーとしても使える真鍮製のボトルキープのカギがポイント。
「40代前半はボトルキープを受け入れてくれると思います。ボトルキープにストーリー性を持たせる。いかに固定客化するかという仕組みを作りたい。キーを持つことのステータスを作りたい。常連意識、帰属意識を高めていく。ウイスキーをボトルで飲みたいと思ってもらうために、2〜3回目以降は黙っていても自分の好きな酒が好きな飲み方で出てくる仕組みを作りたい。行きつけの店にしてもらう。」
「何をやるにも突出した専門性が武器になる。仙台の成功は、音楽を突きぬけて追及したこと。鍵も銀座店はカードキーに変えてしまった。変えちゃいけない部分がいくつもある。潰れたの最大の理由は音楽のクオリティが下がったこと。日本人が演奏してインストルメンタルやカラオケをやりだした。それはスコッチバンクじゃなくていい。洋物のアップテンポな音楽を聴きに来てくれる。マライアキャリーもやります。コットンクラブやビルボードカフェじゃなくても聴けるところがいいんです。」
ビートルズやオールディーズの生演奏で同じく70年代に流行った「ケントス」も、音楽とボトルキープで今、甦っている。団塊の世代だけでなく20代の若者も押し掛けている。9月には横浜で久々の出店を予定している。団塊の世代の方々からも「時間があるのに行ける店がない」という声も聞く。団塊の世代のことを静かな店が良いだろうと勘違いしている方々が多いが、実は元気に遊べる店を求めているようだ。「スコッチバンク」の甦りに注目していきたい。