フードリンクレポート


飲食に勤めたら、どんなことがあっても社長になろう!
八百坂 仁氏
株式会社 駒八 代表取締役

2009.9.11
サラリーマンの街、東京・田町で13店、全店で20店を展開する「駒八」。八百坂氏は、居酒屋業態の創生期である昭和50年に創業し、30年以上に渡って居酒屋のオヤジを貫いてきた。居酒屋とは何なのか。


駒八本店の前で、八百坂仁氏。

昭和50年、夫婦で高円寺に7坪で創業

 八百坂氏は北海道室蘭市で生まれ、18歳で上京。大学に通いながらニユートーキョーの数寄屋橋のビアガーデンでアルバイト。

「アルバイトで食事が出るのが飲食業だったというのが単純な理由です。食券がもらえて、おかずは1品だけでしたが、ご飯、味噌汁、お新香が食べ放題。当時は食べていくだけでもままならない時代でした。」と八百坂氏は言う。

 サラリーマン時代を経て、結婚し、店舗を構えたいという奥さんの影響もあり独立開業。当時、まだ走りだった居酒屋業態に挑戦した。

「独立の勉強の為、サラリーマンをやりながら、新橋の蕎麦屋でアルバイトをしました。当時、立ち食い蕎麦屋かカレー屋というのが脱サラの定番。でも、アルコールを売った方がメリットあるだろうと考え、高円寺で7坪の居酒屋『酒蔵 駒八』を開業。知人の調理人に手伝ってもらい、焼鳥、揚げ物、刺身を作り、お酒を出しました。7坪にベンチシートを作り、20席も作った。客単価1200円で、お客様が1日100人。12万円売りました。調理人と、僕が横で材料出し、洗い物、お燗付け。かみさんは、外で接客。たった3人で12万円です、今でも繁盛店と言えると思います。」

 そして、高円寺で2軒目をオープン。

「順調でしたが、子供ができ、かみさんが家に入ることになったので高円寺での商売を辞め、一店舗で大きめのところへ店を移そうと思いました。どうせ人を使わなきゃいけないなら、山手線の内側に出ようと。新宿駅西口の地下飲食街に物件がありましたが、既に居酒屋が入っており、家主からバッティングしないよう洋風居酒屋ならいいよと言われましたが、お断りしました。同じ不動産屋さんの紹介で、当時景気の良かった日本電気さんの本社がある田町に最終的に落ち着きました。」 


駒八本店 外観。


昭和55年、日本電気のある田町に移転

 田町に移転したのは、昭和55年(1980年)。現在の本店の場所。周辺には、好景気に沸く日本電気、オンワード、東京ガス、三菱自動車など大手企業が多数あった。

「店を開ければ満席。忙しくて、仕込みが間に合わない状態でした。大手企業は景気が良くて、度々出る報奨金を手にサラリーマンさんが来てくれました。1回目は6時に埋まって、8時には残業を終えた方が来た。入りきれなくて、田町で店を増やしました。今の田町には大体200軒ぐらいの店がありますが、当時は50軒くらいしかなかった。」

「当時、飲みに行くと言えば、赤ちょうちんの屋台か、焼鳥、小料理屋ばかり。焼き物、揚げ物、刺身、冬は鍋も食べられるという総合的な居酒屋はまだ少なかった。客単価1200〜1300円、今で言うと2400〜2500円くらい。大衆割烹の低価格版の進化形です。養老之瀧や大庄がチェーン化を始めた頃。居酒屋を出せば、銀行員さんも来るし、サラリーマンさんも安心して飲みに来てくれました。」

「田町ではアルバイトも集まりやすかったですね。集団就職で出てきて工場で働く若い女の子達に、夜のアルバイトとして働いてもらっていました。入りきれないお客様には、次回使えるビールのお詫び券を配ったり、並んでいるお客様にはグラスでサービスビール を配ったりしました。」

 当時は、「大平山」「丸八」「鳥八」「駒忠」という居酒屋が目立っていた。また、「居酒屋」と付けるより、「酒蔵 駒忠」というように造り酒屋のような名称を使っていた。「居酒屋」という言葉は、本格的な日本料理を比較的安価で提供する「大衆割烹」との差別化を意図している。居心地の良い酒蔵という意味。


バブル崩壊まで、厨房に社員5人

「当時は、1店に社員は調理場だけで、焼き場、揚げ場、煮方、刺し場、脇の5人。ホールは店長1人で、他はバイトでした。主だったものは全部社員。バブル崩壊までこの形でした。崩壊後、ローテーション変更に着手。今、ウチの調理場は社員3人が基本ですが、それでもアルバイトを入れて5人のポジションを保っています。セントラルキッチンを作らない為には基本的には5ポジションを維持しなければ満足できる料理ができません。ウチは年配の社員も多く、人件費は30%を越えていますが、料理のレベルを保つのに最低限のところだと思います。」

 しっかりした職人による手作りがウリ。

「素材として冷凍ものを使う時もありますが、基本は生の素材で商品そのものとしての完成品はほぼ使いません。100%手作りです。そら豆は殻から剥いて茹でて殻に戻して出す。枝豆も枝付きで茹でたてを出す。料理には絶対に季節感を入れて、春には初がつお、そして秋にはサンマ、銀杏、戻りかつおと言った具合。」

 流行りのもつ鍋を取り入れたり、女性客向けに今では定番の「かぼちゃのアーモンド揚げ」「サニーレタス駒八風」を開発したりと、常に新しいメニューに挑戦し続けている。


かぼちゃのアーモンド揚げ。


サニーレタス駒八風。


50年続く老舗居酒屋にしたい

「お客様は50代の方が多いですが、宴会ではぐるなびなどを活用して若いお客様も取り込んでいます。早い時間は年配の方が来て、遅い時間は若い方が来る。今、既存店では売上高5〜10%減と厳しい。月曜、火曜が暇。水曜は大手企業がノー残業デイで、金曜と合わせて売上は安定しています。土曜は客層が変わり、地元の方や、慶応大学の生涯教育に参加されている団体の方などが来ます。」

「息子には、駒八を50年は継続してもらいたいですね。天ぷらや鰻など単品の店で老舗はありますが、居酒屋として50年を越えるところはまだありません。そこまでは駒八というブランドにこだわります。駒八というブランドを創業したオヤジがいたんだよと知っていて欲しいですね。工夫を継続していけばこそ、老舗として残っていけます。後生大事に名前だけにすがるようでは絶対潰れる。常に変革をしながら、孫の世代まで続けて欲しい。」

 変革のために、近年の店舗開発はデザイナーを取り入れている。昨年、青物横丁に2店舗オープンさせた「駒八」も、旧知の神谷デザイン事務所に依頼した。

「本店は当時流行っていた民芸調ですが、7〜8年前からデザイナーに依頼しています。去年オープンした青物横丁店もデザイナーに頼みました。居酒屋は1人ならカウンター、3〜4人はボックスかテーブル席、大人数は個室という3つのニーズを網羅していないといけません。その基本を守って、デザインしてもらいました。」


駒八 青物横丁1号店。デザインは、神谷デザイン事務所。


駒八 青物横丁2号店。デザインは、神谷デザイン事務所。


60歳から恩返しの「居酒屋経営塾」

「去年60歳で還暦を迎え、居酒屋経営塾というのを始めました。60歳までは恩を受けてきたので、これからはお返ししていこうという想いでやっています。自分自身にとっても新しいチャレンジです。居酒屋の経営を目指す方向けに講義を行い、その後は意見交換会。30代を中心に毎回25〜30名が参加してくれます。」

 第2回目の今年は、6/10「大衆酒場・居酒屋の真髄!」、7/8「ヒットメニューで勝負!」、8/12「食材仕入れの極意!」、9/9「差がつく!お酒の仕入れ」の4つの講演が行われる。

「僕が知っていることは何でも教えますが、但し、やるのは自分。冷たいようですが、最終的な責任は自分で取らなければなりません。サブリースで出店する方もいますが、結局、サブリース会社は売上を預けなければならなかったりと自由がききません。一般の金融業と同等と認識して取り組むべきでしょう。最初にも言ったように、僕が知っていることは包み隠さずお教えします。塾生の方には開催期間が終わっても気軽にいつでも聞きにきていいと言っているので、その後も交流が続いています。」


やるならば社長を目指そう!

「最近、良く聞く宮崎地鶏の地頭鶏ですが、ウチは8年以上前から生産者さんから直接仕入れています。生産者さんのところにも行って、酒蔵にも行って、そこの人と話す。お客様に安心して食べて飲んで大丈夫ですよと言えるのは実際に現地に足を運んでいるからです。若くて飲食業に従事されている方はあまりそういった機会を持っていないようですね。その一方で、独立志向の強い人間は、日曜とハッピーマンデーを利用して、酒蔵に泊まり込みで仕込みを手伝ったり、漁港で一緒に船に乗らせてもらったりしている。社長になるっていうのはそういうことだと思います。」

「居酒屋甲子園を見てきました。目頭が熱くなりました。オヤジ力に驚きました。一部で批判的な声もありますが、私は賛同します。テンションを上げるためには、体育会系のノリにならざるをえません。テンションを上げて、そのまま営業に突入する。但し、そこに料理内容、サービス、清掃など総合力があるところだけがこの先残っていくのでは。居酒屋は感動を売る商売。料理はもちろん美味しくなくちゃいけないし、値段は極端に高くちゃいけない。でも最終的に感動があれば少々高くてもお客様は満足してくれる。それが日々行われていれば、お店は必ず繁盛する。」

「今のアルバイトは諦めが早い。昔は食えなかったから歯を食いしばった。裕福じゃなかったので、バイト先で飯を食って生きた。今は親が裕福。戻る家があるから独り立ちできない。もっとも家を出たら、汗水して、働こうという意思があれば食えないことはない。えり好みしているのではと思います。そこに昔と今で違いはあるが、基本はちゃんとやった者が残るんだと言いたいですね。」

「昔の板前さんというのは本当の意味で、職人気質ではっきりしていた。酒を呑んでようが仕事中はとにかくきっちりやる。今は皆、サラリーマン化。テンションが低いから、居酒屋甲子園のように元気な店が目立つ。実は先日、自由が丘のてっぺんで朝礼に参加しましたが、手を上げられなかった。やっぱり少し歳をとったかな?外堀を埋めて環境からテンションを上げていくのは間違っていないと思います。しかし、最終的には自分です。周りの環境よりも自分でテンションを上げていくことを考えないといけない。サラリーマンではダメなんです。社長を目指してほしいというのはこういうところにもあります。」

「飲食に勤めたら、やっぱり社長を目指してほしい。しかし、独立した人の7割は2〜3年で潰れています。原因は立地やコンセプトも含め、簡単に店を出しすぎる。料理も作ったことがない者が独立するのは論外。ランチをやって、仕込みをやって、営業して、翌朝早く起きて仕入れをして、とにかくがむしゃらにやる。そうすれば何か学ぶものが必ずあるでしょう。」

 誕生から居酒屋の歴史を見続けてきた八百坂氏。今や、海外でも日本の居酒屋業態が注目されている。本来の居酒屋の意味である“居心地の良い酒蔵”を再認識して、若い世代の経営者にも長く続く、すたれない業態として守り続けて欲しい。


■八百坂 仁(やおさか ひとし)
株式会社 駒八 代表取締役。1948年生まれ。北海道出身。上京し、大学へ通いながらニユートーキョーでアルバイト。その後、サラリーマンを経て、1975年、「駒八」を創業し独立。現在、田町で13店、秋葉原、八重洲、目黒、浜松町、青物横丁で計20店を展開。2001年から息子、八百坂圭祐氏がアサヒビールを退社し、入社。「駒八」以外の、立ち飲みやダーツバーなどの業態を担当している。

「駒八」


【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2009年9月1日取材