・慶應大学からアルバイトを経て入社
山崎氏は、昭和50年にサッポロライオンに入社。当時、慶應義塾大学出身で外食企業を選ぶのは非常に珍しいことだったろう。また、学生時代に2年間、卒業後も就職せずに2年間、サッポロライオンのビヤホールでアルバイトしていたというライオン一筋。しかも、歴代サッポロビール本社から社長が送り込まれてきたが、2003年に初の生え抜き社長に就任した。
「学生時代は慶早戦(銀座ではこう言いました)が終わったら銀座へ繰り出していました。銀座5丁目や7丁目のライオンは老舗で高くて若者は行けなかった。OBの銀座の旦那衆に付いていってご馳走になるのがせいいっぱい。そこで、ビヤホールで働いたら酒も飲め、飯も食えるかなと単純な理由でアルバイトを始めました」と山崎氏。
「就職は、マスコミを目指していましたが、結局、就職せずにアルバイトを続けました。その頃の支配人が早く社員になれと、上に掛け合ってくれてサッポロライオンに入社しました。働いている人がカッコ良かった。蝶タイ姿や、さっそうとジョッキを運ぶ姿にあこがれましたね。劇団上りや元バーテンダーなど様々な職業を経験した人と一緒に働くことがとても楽しかったです。」
「お客様からも徐々に山崎君と呼ばれるようになり嬉しかったです。しかも、銀座という場所柄なので普通の人では話が出来ないような有名人もお客様に多かったです。そんな方々からありがとうと言われる。どんどん気持ちが盛り上がっていきました。」
75年経って今も輝く、ビヤホールライオン銀座七丁目店。
・初の生え抜き社長に
社員になって広島、東京、高松、大阪、札幌などを転々とし、オーストラリアや台湾進出の調査もした。
「入社当時の売上高は57億円。80周年には80億円、100周年には100億円を目指そうと社内は盛り上っていました。実際は、バブル時の大量出店により一挙に300億円を超えました。その反動で、バブル崩壊後には業績不振店舗の大規模な整理を行いました。同時に、既存店の前年割れが10年以上続きました。当然、赤字。今までは、社長・役員はサッポロビールから来た人が大半でしたが、こういった状況を受け、これからは現場の発想が必要ではと、私が選ばれたのだと思います。104周年の時です。サッポロライオンの歴史の中で初めてのプロパー社長です。社員の中には、いくら頑張っても偉い人は皆、サッポロビールから来るという諦めムードがありました。私は当時52歳で、グループ内で最も若い社長でした。」
・「ビヤホールの復活」宣言
「社長に就任してからも業績不振の店舗リストラを継続しました。翌年から5年連続、既存店が増収し、黒字化しました。償却を終えた古いビヤホールの蓄えが大きく、リストラを支えてくれました。ビヤホール業態がなければリストラは厳しかったと思います。古い店舗は昔からのお客様が支えてくれます。当時世の中にはおしゃれな新しい業態が続々と誕生していました。ウチもバブル時には、ビヤホール業態はもう古くてダメだ、と言われ続けていました。新しいことをやっていかないとダメだ、ライオンは遅れている、と。本当にそうなのか?赤字になっても会社が継続できているのはビヤホールがあったからではないのか、と感じていました。」
山崎氏は「ビヤホールの復活」を社長就任時のテーマとした。
「ウチの社内でもサッポロビール側も、ビヤホール業態がダメだから赤字になった、新しい業態を始めないとダメなのだ、という声がよくあがっていました。しかし、本当はどうしてダメになったか?僕は従業員の意識・意欲が疲労しているからだと思いました。ビヤホール業態自体が100年以上続いているのは、そこにそれなりの魅力があるから続いているのであって、ダメにしたのはそこで働く人の意識の問題。だから働く人の意識を変えようとしました。」
「また、ビヤホールで洒落たメニューをやる必要はない。枝豆やポテト、唐揚げ、ピザなど、メニューを見ないで注文できるもの、ビヤホールの基本的なメニューをきっちり見直して良いものにする。これを徹底的に実践すれば、お客様は戻ってくる。洒落たものは他所に任せりゃいい、と考えました。」
「おでん屋でピザを注文するか?美味しいこんにゃくや大根があれば、ここの店は美味いとなる。焼鳥屋でハンバーグを注文するか?美味しい正肉や皮があればいいんです。ウチのビヤホールでは『ビールは美味いが、料理が美味しくない』と言われることが多々ありました。そこでまずは、多少高くてもいいじゃないかと、トレーサビリティーが万全な食材の仕入れルートを確立し、またメニューレシピの整理を行いました。」
「当時は店毎に味がバラバラで、唐揚げ一つでも、あそこの店舗の唐揚げは美味いけど、あそこの店舗はイマイチと言われることもあった。それは同じチェーンにおいておかしいことです。だから、『当たり前のことをきっちりやっていこう』と皆に言いました。」
「さらに、ビヤホール業態、特に銀座エリアの店舗に優秀な人材を投入しました。事業部長を支配人に格下げさせてでも入れました。それにより当社の基幹店である大型の古い店の業績がどんどん上がってきたのです。当時は景気が悪いという時代であったにもかかわらずです。」
「ビヤホールの復活は、実は既存店の活性化ですが、『ビヤホールの復活』という言葉の方がカッコ良く、当社にも合っていると思いこのフレーズを使いました。成功事例を早く見せられたのが良かったです。『何がビヤホールだ』という雰囲気もありましたが、業績が上がると皆の見方が変わりました。当たり前のことをきっちりやって賑やかな空間を作っていくことが大切なんだと、皆が気付きました。」
【ビヤホール人気メニュー】
第1位 ローストビーフ 1枚980円
焼き上がり時間が平日17:30、20:30/日・祝15:00、17:30と決まっており、焼きあがると店内放送が流れる。たくさんの野菜とじっくり6時間焼き上げた肉は最高においしい。またローストビーフというとグレービーソースの店が多いが、七丁目店のソースは、和風しょうゆソースで、さっぱり。数量限定のため、焼き上がり放送直後にすぐに売り切れになる。確実に注文したい場合は、席についたらすぐに予約しておくことをお勧めする。
第2位 ポテトとソーセージのガーリック炒め 880円
ほくほくのポテトとピリ辛のソーセージをガーリックで炒めたもの。ガーリックと塩味が効いて、ビールの相性にピッタリ。王道メニューだ。
第3位 コンビネーションサラダ 950円
ドレッシングを和風、中華、フレンチの3種類から選べる。一昔前までは、上位10位にも入るか入らないかという感じだったそうだが、世の中に「メタボ」という言葉が流行りだしてから、上位に食い込むようになったという。
・外食経営はビールジョッキと同じ
山崎氏は、「ビヤホールの復活」とともに、「新業態の開発」という、守りと攻めの2本立て戦略を取った。ビヤホールの復活で生み出した資金を、「点(ともる)」「かこいや」など新業態の開発に投入した。
「当社を例えるならば、ジョッキのビールみたいなもの。黄色いビールの部分がビヤホール業態。泡の部分が新業態。泡は消えるものなので長くは残らないが、泡が無ければビールの炭酸は抜けてだるくなり、新鮮さがなくなる。ビールは普遍性、泡は時代性。適度な泡があることにより、ビールは美味しさを保つのです。」
「新業態の開発は常にやっていかないといけない。同時に、古いビヤホール業態も時代に合わせ少しずつ変わっていかなきゃいけない。でも、変えてはいけないものがある。ビヤホールのビールは美味しくないといけない。また、明治時代から変わらない、ワイワイガヤガヤした雰囲気や、職業や社会的地位に関係なく誰もが楽しめるという点をきっちり守り続けていかなければなりません。」
「それから新業態について。その時代に合わせて開発した新業態も、10〜20店と増えるに従い消えない部分も出てきます。そうやって新業態が既存店となり、20〜30年後の新たな幹になっていくのです。」
・世代を超えるライオンビヤホール
「ビヤホールというと男性的で年齢層が高いイメージがあるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば銀座7丁目のビヤホールは、今は若い女性のお客様がとても多いです。ビヤホールは楽しさを提供する場です。楽しさというものは時代によって変わるものではありません。年齢、性別関係なく楽しいものは楽しいのです。そういったものを求めて、男性だけでなく若い人や女性も来店されるのだと思います。」
山崎氏は、自分の息子とともにポスターで「はじめての乾杯!うれしいね。おまえが生まれた時から決めていたんだ、最初の乾杯はライオンって」と訴えかける。
「このポスターが欲しいというお客様もいます。ライオンに行って自分の息子と話しができるようになった、と嬉しそうに言う方もいました。ウチの社員にも子供が20歳になったらライオンのビヤホールに連れて行って一緒にビールを飲む人が大勢います。こうやって世代を通して歴史を繋いでいくのです。お客様の話ですが、小さな頃に戦争に行くお父様に連れられて7丁目のビヤホールを訪れ、お父様はビールを、ご自身はリボンオレンジを飲まれました。その後お父様はガダルカナルで戦死され、遺骨もなくその地の砂しか帰ってこなかったそうです。60年ぶりに訪ねたら店は全く変わっておらずあの頃のお父様に会えたような気がしたと、泣いていらっしゃいました。そんな話が沢山あります。」
山崎親子が登場したポスター。
夏バージョンもある。
「銀座7丁目のライオンは今年で創建75年。創建当時20歳でライオンに行ったとすると、今生きていれば95歳。75年前にこの店でビールを飲んだ方はもう数少ないことでしょう。しかしその子供、孫、ひ孫も同じ店にご家族で来てくれる方がとても多いんです。僕は、毎年元旦に必ず銀座のビヤホールにいるんですけど、おじいちゃん、おばあちゃん、息子、孫と何世代もの家族が一緒に来て、ビヤホールで正月を過ごしている人がいっぱいいます。世代を超えた使われ方をしている代表的な光景ですね。ビヤホールの存在価値とは普遍的なものであり、この店は絶対に変えちゃいけないと思っています。」
「また従業員の中には、60歳以上の大ベテランもいるし、16〜17歳の若い人もいます。彼らが一緒になって、同じ目的に向かって働いている。ベテランの中にはパソコンもろくに使えない人もいるけれども、培われてきた歴史と技術と人望があって、お客様を掴んでいる。若い人はそういうのを学ぶ。世代が違っても互いに切磋琢磨しているのです。」
「今年創業110年周年を記念して、8/4の『ビヤホールの日』に合わせ、社員全員がオリジナルの黄色いポロシャツを着て営業に励みました。皆、110周年を祝い喜んで着てくれ、年齢を超えて一帯になりました。同じ目的に向かって仕事をしているんだと強く実感しました。お客様だけでなく、自分達の心も豊かになれるんだと社員全員が実感しました。」
・OB・OGも大切にする
銀座7丁目のライオンでは、7割がリピーター。1回来るとリピーターになるという。最も繁盛していた時代は、小さいテーブルにもかかわらず相席をお願いしていた。それでも外には行列ができたという。
「なぜ110年もったのか考えると、支えてくれるお客様、従業員がいて、さらにウチの諸先輩方のおかげではないかな。OB・OGの方々を集めて年に1回『友の会』という親睦会を開いています。かなり年配の方々も年に一度のこの会を楽しみに銀座まで来られます。いろいろな経験をした先輩がたくさんいます。終戦から昭和26年末まで、ビヤホールライオン銀座七丁目店は進駐軍専用のビヤホールとして接収されていました。そこでウエイトレスとして働いていたOGの方が、『あの将校から結婚しようと言い寄られたのよ』などと昔話を話してくれたりします。」
「4回の東京大空襲では、銀座7丁目のライオンは奇跡的に爆撃を一切受けず無事残りました。真偽はわかりませんが、銀座周辺の人は空襲の時、『あそこには爆撃は落ちない』とライオンに逃げ込んだそうです。生き残った方々による、ビヤホールありがとうという飲み会が最近まで続いていました。後で接収することになるライオン、服部時計店、交詢社、第一生命を残して、爆撃したんではないかと戦後噂になったほどです。」
・新しい形のビヤホールを作る
ここ5年間ほど、新入社員の面接時にビヤホールで働きたいという学生が増えているという。特にサッポロライオンの歴史に興味を持つ学生が増えている。
今年、ビヤガーデンの売上は雨天で営業日数が少なかったにもかかわらず、どこも驚異的な伸びを示している。ライオンの銀座松坂屋屋上ビヤガーデンは、9/25まで営業を延長することを決めた。
「松坂屋屋上のビヤガーデンは天候が悪かったにもかかわらず凄い売上。不況にもかかわらず、客単価が4千円越えての大盛況です。今は時代に閉塞感があり、皆の気持ちが暗くなっているのではないでしょうか。思い切って羽を伸ばしたいという人が増えているのではないでしょうか。当社でも個室ダイニングや衝立を置いて目線切りしている店舗もありますが、今皆が求めているのはそれじゃないのだと思います。皆、寂しく感じている時があるはず。そんな時周りと一緒に連帯したいという気持ちがあるのだと思います。だからこそこれからは衝立の無いオープンな店を作っていかなきゃいけないと思っています。」
「汐留の新橋停車場を再現したビヤホール『ビヤダイニングライオン汐留店』(2006年5月開店)が大当たりしています。お客様は体を楽にしてダラーと気持ちよく飲める店を求めているのではないでしょうか。気取った店ではなく。立ち飲みも一つの素晴らしい文化ですが、皆でウワーと騒げるという解放感はありませんよね。手早く飲めて食べられるコンビニエンス性がウケているのでしょう。対してビヤホールは、即効性はなくてもまったりとした雰囲気でビールを飲む、家庭では出せないビヤホールのビールを飲む、広くて天井の高い空間を楽しむ、ざわめきを肴にする、などが魅力的なのです。」
同社の新卒社員に女性が増え、しかも彼女達がビヤホールで働きたいという。実際に、若い女性同士のお客をライオンでよく見かける。女性の間で歴史好きの「歴女」が増えていることとも関連がありそうだ。ビヤホールという歴史を感じさせる業態が若い女性も巻き込んで甦ろうとしている。
■山崎 範夫(やまざき のりお)
株式会社サッポロライオン 代表取締役社長。1950年生まれ。高知県出身。慶應義塾大学法学部卒業。学生時代からサッポロライオンのビヤホールでウェイターとしてアルバイト。卒業後も続け、1975年にサッポロライオン入社。2003年より初の生え抜き社長として就任。
→株式会社サッポロライオン