・中村悌二氏と10年働いた
三好氏の外食経験のスタートは、大学で上京した際に働いた東京・下北沢の大皿料理居酒屋。そこで、同時期に働いていたのが、実力店舗プロデューサーの中村悌二氏。中村氏がバー「フェアグランド」で独立し、半年後に誘われて2人でバー運営を始めた。
「お料理が好きで、大皿料理でバイトを始めました。まかないもついて、お酒も飲めました(笑)。当時は街に店に活気がありました。働いたのは1年くらい。同じバイトをしていたのが、中村悌二さん。フェアグランドを中村さんが1人でやっていた時、来ないかと誘われ、その後、10年間一緒でした。下北沢の『なかむら』など、一から店を作っていき、面白かったです。池尻の『KAN』が移転するまで、調理場やホールで働きました」と、三好氏。
その後、中村氏と路線の違いを感じ、退社。自分の店を持つために、料理教室を開くなど、フリーの料理プロデューサーとして活躍した。
「日本文化を引き継いでいけたらなとずっと思っていました。お料理が好きなので、日本人なので日本料理をやろうと。居酒屋は厭でした。日本料理を作る人が少なくなりました。それを支える仕事がしたかった。日本料理は奥が深く面白いです。」
東麻布本店 店内。但し、11月下旬まで改装のため休業中。
・「万歴龍呼堂」の屋号で売る
2002年7月、独立1号店が「万歴龍呼堂」。三好氏が31才の時。場所は東麻布。大江戸線が通り、麻布十番駅が出来た後で、街の発展を期待して決めた。ビル1階だが、庭を通って店に入るという落ち着いたたたずまい。45坪に32席という余裕のある空間で、地下には個室も用意されている。
「家賃が安かったんで決めました。ある程度は設えたいという思いがありました。私が料理人だったらカウンター割烹やるでしょう。でも、私は料理人じゃないので、屋号で売っていきたいという考えでした。料理長の顔ではなく屋号で売る。お客様もそこに共鳴していただきました。」
「日本料理とは謳わず、“和の料理”と謳っていました。内装は全て日本のものを使っています。壁は淡路の土を使うなど、朽ちてもいいものを使いました。手の仕事、手のぬくもりは残したいです。職人さんのキラッと光るものが入っていると違います。それに加えてモダンさがデザインのテーマです。今はZENとか言われていますが、その先駆けです。」
「屋号の“万歴”は、おこがましいですが、日本人が大切にしてきたものを若い世代が伝えていけたらいいなという気持ちです。“龍呼”は時代が厳しかったので登龍のごとく駆け回りたい。また、私の息子は龍之助。そんなことで文字を重ねて作り上げました。」
庭を通って店に入る。
表札。
・東京オンタイムの力強い料理
客単価はコースのみ。ランチで5千円から1万8千円、ディナーで1万円から2万5千円と高額。しかし、オープン当時は6千円のコースで始まり、徐々に単価を上げて現在に至る。
「時代的にはセンセーショナルで、屋号も何だろうと思わせ、面白いねっという店が出来上がりました。オープン時は景気が悪くて、知り合いしか来ませんでしたが、文化的な人が集まり始めました。中小企業の社長からお前、頑張れと励まされました。面白い店だぞ、と口コミで広がっていきました。最初の3〜4年は大変でした。寝る暇もなく、まともに給料ももらえなかったです。最初はコースを6千円で始め、2〜3年後に8千円にし、その後、今の単価に上げました。」
「懐石料理に習って勉強しながら作っています。ビジネスモデルを作っても、得てして失敗する訳じゃないですか。自分の感覚で勉強しながら作りました。万歴という名前とお料理が結びつかなくて、どういうお料理がでてくるか全く想像がつかないのが面白かったようです。」
「京都は文化を受動的に受ける感じですが、東京はオンタイム。働いている人がオンタイムで食べに来てくれる。力強いお料理がウケるのではと考えました。基本的にはおしなべたお料理ではなく、起承転結に沿って緩急をつけたお料理を作りたい。創作はやりたくありません。古典的なお料理の中から、今の時代好みのものをピックアップしています。」
・バイブルは辻留の『懐石伝書』
「現代の東京にあるべき料理と捉えられているようですね。力強いし、シンプル。器も手作り。新しいと捉えられたかも知れないですね。花街の料理ではなくて、ウチは懐石料理の『辻留』さんの方に向いています。二代目、辻嘉一さんが書かれた懐石伝書が私のバイブルです。非常にモダンですよ。今でも十分通用しますね。」
「辻留」は明治35年創業の懐石料理の老舗。懐石とは日本古来の一汁三菜という食法に乗っ取り、茶の湯の席でお茶を楽しむ前に出される簡単な料理。茶道の歴史とともに洗練され、芸術の域まで達している。
「年忘れは現代だったらどうかな、十五夜はどうかななど、四季折々の料理を考える時に本を開きます。辻さんが素晴らしいのは、自分のレシピを皆に知らしていることです。日本料理は背中で覚えろとか言われていた時代に書かれた本です。」
「自分の店をオープンさせた後でこの本に出会いました。それまでは自分の感覚だけでやってきましたが、理にかなっているというか、ちゃんとしたルールがあることを知って、ますますお料理が面白くなってきました。」
『懐石伝書』昭和44年発行。辻嘉一著。向附、ご飯と味噌汁、椀盛、焼物、煮たもの、八寸・口取、点心の全7巻。
点心の巻。
点心の「年忘れ」料理。
・米『ワインスペクター』誌で紹介され海外で人気に
「ワインやシャンパンが好きで本気でお料理に合わせてきました。それが評価され、6年前に米国のワイン専門誌『ワインスペクター』が初めて日本の特集をした時にウチが取り上げられたんです。よく見つけるなと思いました。お客様に著名人の方が多くて、外資系企業のトップの方々にもお忍びで使っていただいていました。また、文化の匂いのする方々からもかわいがられました。そこから広がったのでしょうか。ようやく認められました。」
「特にヨーロッパの方に評価していただいています。アジアの方も多いです。シンガポール、台湾、香港。昔からなぜなのと思うくらいアジアの方が多かった。彼らは彼らで口コミがあるみたいですね。今もお客様の2〜3割が海外の方です。」
そして、2007年、08年と2年連続でミシュランガイドの1つ星を獲得し続けている。
・ケータリングでブルーオーシャン戦略
2007年、日本橋三越に弁当店を出店。しかし、残念ながら撤退。今は店舗は持たないが、弁当のケータリングとして三越の扱いは続いている。
「三越さんに入って、ウチのお料理は年配の方から我々の世代、そして我々の子供の世代まで通じると思いました。買うのは、おじいちゃんやおばあちゃん。年配の方のセンスを分かっていると理にかなってくるわけじゃないですか。そういう店作りをしたいなと思いました。」
「三越さんに出したらお客様は年配の方ばかり。ご飯が固いとか怒られて家まで謝りに行ったりしました。散々怒られましたが、翌日にはまた買いにきてくれました。三越のお客様はうるさいので鍛えられました。売上が作れず撤退しましたが、今も三越さんを通じてのお弁当のケータリングは続いています。老舗のお弁当は大量製造で手を抜いている部分があると思いまが、ウチは1つ1つ手作りです。」
「屋号を構えて、ある程度の設えをしているケータリングは都内ではウチ以外にありません。今の立ち位置は、老舗のお弁当に飽きた方々にとりブルーオーシャン的なところがあって注目されていると思います。」
・東京駅に、ヨーロッパを狙って“喫茶去”を出店
本年10月、東京駅一番街1階に食事・喫茶・甘味が楽しめる和風サロン・ド・テ「喫茶去 万歴龍呼堂」と、弁当や和菓子を販売する「万歴龍呼堂」をオープンさせた。喫茶去とは禅語で「お茶でもいかがですか?」という意味。
「喫茶去(きっさこ)とは昔からあるお茶のことばです。年配の方はお茶やお花をやっている方が多いのでご存知です。この業態を是非ヨーロッパに持っていきたいです。日本の方も外国に多いじゃないですか。かつて日本を出られた方はたぶん喫茶去を知っていると思います。我々若い世代が喫茶去を作っているのが分かると年配の方と接点がでてくるじゃないですか。繋がります。楽しみですね。」
JAL国内線のファーストクラスの機内食に6〜7月に採用され、来年の1〜2月も使われることが決まっている。
東京駅一番街1階の「喫茶去 万歴龍呼堂」。
弁当 点心 1,890円。
黒きくらげ、南瓜、クコの実入り粥 840円。体の冷えが気になる方、目の疲れが気になる方に。
・これから10年のテーマ、日本人が作る料理
同店には40歳の料理長を頭に、常時5〜6人が厨房に入っている。
「僕が入った20年前は飲食店なんて二束三文だと父親に言われました。まだ地位が無かった。その中で日本料理は閉鎖的でした。少しずつ開かれていけば面白くなっていくのでは。」
「修行で殴られたりとか大変というイメージがありますが、今は殴る時代じゃない。ウチはアットホームですよ。静かな子が多く、私もこういう性格なので殴ったりしません。きっちりした労働時間がまず前提だと思います。」
「40歳の私の新しいテーマは日本料理じゃなくて、日本人が作る料理。私の今後10年のテーマです。日本人に拘る訳ではなく、外国人でも日本人的な人ならいいです。日本をよく知っている外国人は多いです。現代の日本文化を取り入れながら、試行錯誤やって行きたい。」
「ホテルの料理長になりたい人もいたり、料理屋の料理長になりたいという人もいたりしますが、皆さん向き不向きがあると思います。居酒屋さんを目指しているが、この子は料理屋の方がいいとか。皆、美味しく焼けたり、美味しくご飯を炊けたりする基本的な技術を持っています。ほんとうに美味しいご飯屋さんとか出来たらいいなと思いますね。」
「かつては、政財界が日本料理屋とか応援してくれましたが、今は全くない。できれば日本の伝統芸能を守っていきたい。フランスなんかなフランス料理を無形文化財にしようとしています。日本も料理人の認定をして、国が家賃の何%かを援助してもらえるとかすれば残ります。それをやらないと日本料理は残らないですね。1企業の努力では無理ですよ。」
「僕の世代で昔の仕事を知っている最後じゃないですか。30代の人は見れていない。店も厳しいし、料理屋も潰れていく。日本料理をやりたくてもできない。」
・危なっかしい料理だけど面白いぞ!
「海外に行くと、オーセンティックなんだけどモダンなものがいいんじゃないですか。古い料理屋さんは地のものを使ったりとか、こだわりがあるので海外に出られない。ウチは若い会社で伝統を背負っていないので出やすい。」
「外食の機会は減っていますが、やはり日本料理。5日あったら3日は日本料理を食べるでしょう。その中で、蕎麦屋や寿司屋があって、料理屋があって。でも、ウチはそっちじゃなくて、ヒヤヒヤして危なっかしいお料理だけど面白いぞ、そういう料理屋でありたいなと思いますね。」
三好氏はお茶やお花が好き。料理を通じて、今の日本文化を世界に伝えていこうとしている。日本料理店が海外で増え続け、伴って怪しい日本料理も増えているようだ。万歴龍呼堂のような今の日本を象徴できる日本料理店を日本人から世界に発信して欲しい。日本料理の伝統だけでは重い。モダンな要素を加えることがポイントであろう。
■三好 賢治(みよし けんじ)
株式会社 万歴龍呼堂 代表取締役。1969年生まれ。徳島県出身。2002年7月、万歴龍呼堂(東京・東麻布)を創業。07年、日本橋三越に出店するが1年で撤退。07年、08年とミシュランガイドの1つ星を獲得。09年10月、東京駅に「喫茶去 万歴龍呼堂」を開店。
→「万歴龍呼堂」