フードリンクレポート


狂牛病の最中に、ホルモン開業。
〜ホルモンをベースに個人商店チェーンを展開〜(5−1)
光山 英明氏 株式会社 個人商店 代表取締役

2010.4.1
一風変わった社名を持つ、株式会社個人商店。2002年に東京・吉祥寺に開業させた500円均一のホルモン焼『わ』を皮切りに、予約の取れない和食店、ギャラリーカフェなど6店を直営するとともに、『わ』と同様業態のライセンス店を16店展開している。そして、3/30には京都にビストロ・ホルモン店をオープン。その光山社長を取材。お客と店との関係を考えさせられた。5回シリーズの第1回目。


光山英明(みつやま ひであき)氏(株式会社 個人商店 代表取締役)。

狂牛病の最中に、ホルモン開業

 光山氏は男3兄弟の末っ子。3兄弟ともに上宮高校(大阪市天王寺区)で野球部に所属。光山氏は主将として1988年、春の選抜高校野球でチームをベスト8に導いた。そして、スポーツ推薦で中央大学に進み、東京・吉祥寺で寮生活を送った。この吉祥寺での生活が忘れられず、地元大阪の酒類卸で10年間のサラリーマン生活を捨てて舞い戻ってきた。

「02年4月15日に東京に来て、気が付いたら11月15日に店をオープンさせていました。居酒屋で働いたことがなかったので、食べに行った居酒屋に翌日、その店の良い点と悪い点をレポートにして雇ってくれと頼んだら、見事に落とされました。悪い点を沢山書き過ぎたので当たり前でしょう(笑)。結局、飲食店で働いたこともなく開業しました」と行動力のある光山氏。

 その店がホルモン焼き『わ』。吉祥寺駅から歩いて10分。当時は何もないエリア。


豚タン・脂つきWホルモン 共にこのボリュームで500円。

「ホルモンを選んだ理由は、調理技術が無いので、ただ慣れ親しんだ食材だから。食べて美味しい、美味しくないの判断基準は高い自信がありました。韓国食材で圧倒的に良いもの仕入れられる身内のルートもあるんで、これはいけるかなと思いました。」

「でもちょうど01年9月に狂牛病が日本でも確認された直後。日本中の焼肉店の売上が落ちた頃です。ホルモンも売れなくて余っていました。東京のある肉屋のホルモンがどう見てもめちゃくちゃ良かった。原価計算もしたことがなかったので、値段が合うのか、大阪で和食店を経営する長男に見てもらったら、これ凄い、あり得ないくらい安いとなった。肉屋からは、焼肉はこの時期、やらん方がいいよ、とアドバイスされましたが、最悪お客が来なければコレを自分で食べればいいや、そんな程度で始めました。」

「最初から良かったです。昔からのホルモン屋に挑んでも勝てるわけがないので、すべて塩味にしました。カウンター14席の小さな店で、お客は僕と向かい合わせ。入手困難な焼酎を並べて全部500円で売りました。焼酎ブームの走りで、最初は焼酎で火が付いたんです。焼酎屋と思って来たら、ホルモンも美味いとなった。ホルモンは後追いです(笑)。1人で働いて最高で1日7万5千円も売れました。儲けましたね。」

 ホルモンブームが続いているが、東京には牛ホルモンについての知識が少ない店が多いという。

「ホルモンを分かってない店が多い。『芝浦朝〆の牛肉』とうたい文句にしている店がありますが、今はそんな牛肉は出回っていません。狂牛病の後、1日検査期間を置くことが決められています。つまり、〆て最短でも翌々日。豚や鶏は朝絞めができますが、牛はありえない。狂牛病以前は絞めたての、ホッカホッカに湯気の立つホルモンが手に入りました。 今の牛ホルモンはぴかぴかの新鮮なホルモンとは言えません。」

「ウチは牛ホルモンが主ですが、鶏や豚も少し扱っています。ホルモンの場合、複雑な問題があるので、仕入れる肉屋にどういうルートでくるか分かりません。美味しいホルモンとは、絞めてから時間が経ってないもの、もしくは絞めた後の処理方法に因ります。掃除し過ぎはダメ。肉屋の加工現場に見に行って、この脂を残して下さいなどと注文して今の形になりました。ライセンス店もあるので、素人でもやり易いように加工したものが各店に届くようになっています。」


【取材・執筆】  安田 正明(やすだ まさあき)  2010年3月17日取材