・大津波から立ち上がる石巻、気仙沼の飲食店。
東日本大震災で甚大な被災を受けた宮城県の太平洋沿岸にある石巻市。石巻市役所の調べによれば4月18日現在の死者2806人、行方不明者2770人、避難者1万2406人、避難所数118、となっている。
3月11日の本震とその後の余震を含めて震度6規模の生きた心地がしない地震が4、5回も起こっている。そして、何よりも本震直後に市街地を襲った大津波は高さ3メートルを超え、沿岸部の工業地帯、漁港、住宅地、及び、旧北上川に沿った市の中心部の商業地帯で壊滅的な被害をもたらした。市の中心部からずっと外れた地域では7.6メートル以上の巨大な津波が襲来した地域もある。
石巻港は日本の漁港ではベスト5に入るほどの漁獲量を誇り、八戸港、気仙沼港と並んで東北の最重要漁港の1つ。人口約16万3千人で宮城県第2の都市。仙台より50キロほどの距離にあり、東京・八王子間とほぼ同等であって、近年は仙台のベッドタウン的性格も強めていた。
現在、石巻市に入ろうと思うと、車を使うか、公共交通はJR仙石線と石巻線が復旧していないので、公共交通はバスかタクシーを使うしかない。30分に1本ほど仙台駅前から出ている高速バスで石巻に向かった。
途中、高速道路から見える車窓の風景は、仙台港付近を除き内陸部を走っているので、ほとんど被害があるようには見えない。むしろ全く普通の日常だ。石巻市内に入った田園地帯もさほど地割れしているわけでもなく、高速を降りた付近のイオンのショッピングセンター、ヨークベニマル、ケーズデンキなどのロードサイド店もしっかり建っている。ラーメンの「幸楽苑」も盛業中。
石巻インターチェンジ付近のロードサイド店
しかし、石巻駅に近づいた北上運河という小さな運河を渡った先の「ビッグボーイ」には灯りが点っておらず、今も営業停止中のようだ。このあたりからは道がほこりっぽく、津波が来たような形跡が見える。そうこうしているうちに石巻駅前に着いた。
JR石巻駅
石巻駅は電車は運行していないものの、駅舎はちゃんと建っていて、再開には問題ないように見えた。ただ途中で流された線路などもあり、全線開通の見通しは立っていない。
その横に、営業中の喫茶「マンガッタンカフェ えき」を発見。限定メニューの営業ではあるが、疲れたので1杯コーヒーを飲んでいくことにした。
「マンガッタンカフェ えき」
店名からはマンガ喫茶のように思えたが、中はいたって普通の喫茶店。では店名の由来はというと、近くに「仮面ライダー」などの傑作を生み出した、宮城県出身の故石ノ森章太郎にちなんだ「石ノ森萬画館」があり、石巻市はマンガでまちおこし中なのであった。
石ノ森漫画館
聞くと、営業を再開したのは訪問したその日、4月14日。電気、ガス、水道が復旧し店を開けたところ、周囲に開いている店が少ないこともあり、多くの顧客が来店。常連と再会を喜びあった。
津波は30センチほどの高さで店内にも押し寄せ、テーブル、椅子など脚の半分くらいは浸水したが、全部洗って使えるようにした。女手ばかりで大変だったそうだが、店内は清潔で海水がはるか床上まで浸水したとは思えないほど旧に復していた。店員にしてみれば、約1ヶ月ぶりにいれるコーヒーは格別の思いがあったに相違ない。
津波の浸水から復活した、マンガッタンカフェ えき
その日のフードはホットサンドしか出せなかったが、次の日からはカレーも出したいと、店員がカウンターで仕込みをしていた。甘辛いスパイスの香りに誘われて、翌日からも大いに賑わっているだろう。
駅前大通りでは、創作中華「しえんろん」の前で、店からホースを引いて懸命に歩道を洗っている店主らしき人物が。扉には「しばらくお休みします。絶対に!また営業します!!まってて下さい!!石巻ガンバロウ!」と張り紙があった。
再開を約束する、しえんろん
創作中華しえんろん前。津波で汚れた地面を清掃。
「石ノ森萬画館」まで行く途中の立町大通り商店街には、「DOUDH」というおしゃれなカフェ風の店。14時頃までランチを営業している。
DOUGH、ランチ営業中。
この商店街はシャッターが閉まったままの店が多く、地震の影響か津波の影響か判然としないが、傾きかけた危険な建物も多くなる。路地を見ると瓦礫の山となっている一角もあって、津波の威力が感じられる。
地震と津波でシャッターの下りた店が多い商店街。
さらに1、2ブロック行くと、泥をかぶった信号機が傾き機能していない、電気が未だ来てない場所となる。駅から5分と歩かないうちに風景は一変した。
浜側には和風創作割烹で地元で評判のいい「松竹」の看板が見えた。ビルの1階で瓦礫と化した店内から運び出された、泥まみれの厨房機器には「使用しますので回収しないでください。」と書かれた紙が張ってあった。飲食店の不屈の闘志を感じた。
津波に浸った厨房機器を洗って使うつもりで救出した。
自衛隊の給水車や災害復旧車が止まる広場を横目に、旧北上川に掛かる橋を渡る。金属の柵がぐにゃぐにゃなっていて、川を遡上した津波の水圧がいかに強かったのかが察せられた。この地点は河口から約2キロあるが、さらに先の先まで津波が押し寄せたのだから、市民の驚きは大きかっただろう。
川の中州にある「石ノ森萬画館」。頑強な新しい建物なので、少なくとも上階部分は大津波に耐えたように見受けられた。だが、中州の奥は震災直後とさほど変わらない瓦礫の山が続いていた。建物に船が突っ込み、車やら自転車が横転し、どこからか流れ着いた石油タンク、家が不自然に川面に並び、そこになぜか自由の女神像が立つ。そして、そこらから漂う、海の塩とヘドロが混じったような異臭。どう書いても表現不能な世界が広がっていた。
かなたに自由の女神…。シュールすぎる。
石巻から、さらに北へ宮城県北東端の気仙沼市へ。海岸の道がつながっていないので、仙台まで戻って高速バスで東北自動車道まで岩手県一関市を経由し、北上山地を越えて現地に着いた。東北本線、東北新幹線は今も仙台と一ノ関の間はつながっていない。
途中、東北自動車道は最大震度7を記録した栗原市を通る。さすがに栗原市内の道路状況は悪く、段差や裂け目があちこちにある。60キロの速度制限が設けられていた。
栗原市内の東北自動車道。ところどころに段差がある。
北上山地に入ると山々の谷間にのどかな農村があり、特に被害はないようであった。
気仙沼街道を通って気仙沼市内に入った。車窓から地酒「両国」の配送センター。出荷は続けられていると聞いた。ロードサイドのラーメン屋「麺来」はラー油のきいたピリ辛ラーメンが、辛党に支持されているが、元気に営業中だ。
石巻と同じく気仙沼でも、高台ではいつもと変わらない日常の風景がそこにあった。終点の気仙沼駅前で降りると、駅舎、キヨスク、「ホテルパールシティ」など全て無事。震災の影響は表面上特に感じられなかった。JRのローカル線、大船渡線は18日に一ノ関と気仙沼間で運転が再開された。
気仙沼市は人口約7万3千人。元々は風光明媚な港町で、高級食材フカヒレの産地。スローフードが盛んであり、日本有数の漁港と観光とグルメで売ってきた。
JR気仙沼駅前
高さが平均6メートル、最大10メートルと言われる大津波による市の中心部の壊滅と、4日4晩も燃え続けた港湾の大火災で全国的に有名になったが、本来は垢抜けた感じの街である。
4月18日現在の死者810人、行方不明者1225人、避難者6172人、避難所数72となっている。
突然降り出した雨避けと昼食を取りに駅前の食堂、「ますや食堂」に立ち寄った。なかなか食材が入らないことから、この店も限定メニューで提供。朝7時から開けて夕方は食材がなくなり次第で閉店する。3月23日より営業を再開したそうで、被災地にあってはかなり早いほうだ。
駅前のオアシス、ますや食堂。
ますや食堂、焼き肉定食。肉質も味付けもレベルが高い。
店の名物「気仙沼らぁめん」は残念ながら休止中。サンマの骨など魚介類からスープを取り、サンマのすり身が上に盛ってあるものとのこと。気仙沼漁港の再開は5月末の見込みで、しばらく魚介類のメニューも難しいと、お店のおかみさんも寂しそうだ。そこで「美味しさ抜群」と宣伝文句があった「焼き肉定食」820円也を注文した。肉厚の豚肉にゴマだれが掛かっていてなかなかのものだった。サービスでヤクルトが付いてきた。
この店は震災の取材に入っているマスコミ関係者にも重宝されているようで、中年の上司らしい男性と2人の若い社員らしき男性が、「焼き肉定食」を食べながら打ち合わせをしていた。
「いい絵を取りたいから、雨が降ってきたので取材を延期した」とか、「南三陸町は夕方は暗くなると灯りがなくなるので、お昼までに切り上げて気仙沼に帰ってくるように」といった声が聞こえてきた。
テレビ局なのか、やはり報道は強い絵にこだわるようだ。また、同じ被災地でも、気仙沼、石巻のように街の高台部分がそっくり残っている場所と、南三陸町、女川町のようにほぼ街ごと大津波で流されてしまった所があることが、わかってきた。被災地間格差は、実は大きいのだ。
店を出ると雨は上がっていた。駅から港へとだらだらと坂を下り、港までは約2キロ。スーパー「片浜屋」には普段どおり、豊富に食材が揃っていた。水も牛乳も魚も問題ない。
水だって豊富に揃っている(スーパー片浜屋にて)
気仙沼街道を下り切って、八日町商店街に入り気仙沼市役所に差し掛かるあたりになると、道に砂ぼこりが目立ち出し、ほどなく商店の間に瓦礫の山がポツポツと出てくる。港からは約1キロのこのあたりはもう津波が到達していた。
ほんのわずかな標高の差が天国と地獄を分ける。もうその先は、折れ曲がった信号、倒れた電信柱、ビルの2階や3階の窓に車が突っ込む、瓦礫が散乱した住宅街の道に巨大な船が乗り上げている、倒壊した家屋の横に唐突に横倒しのドラム缶、陥没した道に水が溜まって抜けない、といったおびただしい廃墟が広がっていた。クレーン車や自衛隊の災害支援車が目立ち、さながら戦場である。
被災地でよく見かける災害派遣車。
あれだけの火災が発生したのに、意外と焼け跡を見ないのを住民も不思議がっていて、海に流失した木材を燃やし尽くして消えたのではないかと推測していた。
ここは道だったはずなのだが…。
かつて旅行で気仙沼を訪れた時に、フカヒレ鮨を食べた「大政寿司」まで行こうと思ったが、瓦礫に道を塞がれ断念した。
港に沿って歩くと、防波堤までの水位がやたら近いというか高い。石巻でも同じことを感じたが、三陸一帯の土地が地震で全体に陥没していて、海の面積が広がったというか。ベネチアみたいに、満潮時には海岸の道路に海水があふれてしまう。大きな余震で津波が来ないことを祈らずにいられない。
気仙沼港
わずか300メートルほどの狭い海峡で隔てられた離島、大島との定期航路が3月30日より再開されていてこれは明るい話題。
一方で「お魚いちば」、「リアスシャークミュージアム」といった海岸にあった観光施設は、もろに被災して復活までには時間が掛かる模様だ。
街の基幹産業、漁業と水産加工業はいったん壊滅したものの、地震、大津波、大火災の連続的な3大災害から運良く生き延びた気仙沼市民は、自然災害なので今はそれはそれと受け止め、むしろ福島の原発事故の拡大を恐れている。魚の海洋汚染、または風評被害が広がると、せっかく再興しても魚が売れなくなるからだ。
やはり港近くにあり、震災前は賑わったであろうファミレス「ジョイフル」。窓ガラスが水圧で破られ、なだれ込んだ濁流で店内設備が流されてしまっていた。しかし壁にはデカデカとした文字で、「只今営業再開に向け努力しています。もうしばらくお待ちください!!」と張り紙がしてあった。この店から気仙沼を元気にするんだという決意表明を見た。
ジョイフルのスタッフ寄せ書きが外壁に張ってあった。
石巻にしても、気仙沼にしても、確かに大津波で下町が破壊されはしたが、幾つかの飲食店は復興に向けて動き始めている。まずは、電気、ガス、水道とライフラインの復旧からその動きは加速するだろう。
もちろん、これを期に店をたたむ店主も多いが、産業が復興してくれば新たなる飲食需要も出てくるに違いない。
そして、高台には東京とそう大きくは違わない日常もある。今は食材不足や余震の恐れなどから来る出控えは、東京よりもあるものの、よほどの余震が来るか、原発事故が悪化しない限り、徐々に解消されていくであろう。
実際、沿岸部の甚大な被災場所から高台に戻ってくるとホッとすると共に、普通に復興できるのではないか、復興できなければおかしいという気分になってくる。
瓦礫から立ち上がる飲食店に、清掃のボランティア、厨房機器の提供、無担保の資金貸与などといった手厚い支援があってほしい。