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フードリンクレポート


【日拓ディスコ・マジック3連載】第3回
僕は、花火師、イベント屋。

日拓OB・平成元年入社 松村 厚久氏
株式会社ダイヤモンドダイニング 代表取締役社長

2008.12.26
1985年に誕生した六本木「AREA」「CIPANGO」。そして、89年に誕生した赤坂「RONDECLUB」。バブル時代、日拓が経営していた人気ディスコだ。東京の花形ディスコにあこがれ、地方から上京した若者たちが働いていた。その中に、今、外食業界で話題の経営者3人がいた。彼らを生み出した日拓の魅力を取材した。3回目の最後は、今をときめくダイヤモンドダイニング、松村厚久氏の登場。


ダイヤモンドダイニング社長室にて、松村厚久氏。両手に持つのは、日拓時代の写真。

本社会議室にミラーボール

 松村氏は日本大学を卒業し、日拓の大量採用3年目の平成元年(1989年)に入社。ディスコにあこがれたという。でも、本当に入社したかったのは「気まぐれコンセプト」など流行を作っていたホイチョイ・プロダクションズ。元々、企画が好きだった。

「会社説明会でディスコ音楽がガンガンになっていました。本社会議室にはミラーボール。何んじゃこの会社は、と思いました。別のディスコは化粧代が月に5万円もかかるとの噂があり、日拓に決めました。大卒100名の全員がディスコへの配属を希望していましたが、実際には10名程しかディスコには行けなかったんです。」

 その後、松村氏はディスコ店を異動していく。日拓の本業であるパチンコ店には1度も配属されてない唯一の人。そして、花形の「AREA」「CIPANGO」の2店舗統括店長にまで昇った。

「入社時に自衛隊に入れられて鍛えられました。深夜に『空襲だ!』といって起こされる。真暗の中で起きて靴を履く。うまく履けてないと全員で腕立てです。また、座禅。ひたすら座禅。そして、『これからは不動産の時代、全員宅建をとれ』と言われて宅建の塾もありました。」

「社長の講話会が月に何度かあって、朝から晩までずっと経営理念とか話す。それにみな感化されました。子会社をいっぱい作るので、皆社長になれと言われました」と言う。水商売といわれた時代に、いち早く日拓は教育に力を入れていた。


「CIPANGO」時代の松村氏。黒服四天王に選ばれた。


全文(有料会員様専用)の見出し
ディスコは水商売の最高峰
僕は、花火師
社長じゃなくても、スターになれた

(写真全3点)

■松村 厚久(まつむら あつひさ) 
株式会社ダイヤモンドダイニング 代表取締役社長。1967年生まれ。高知県出身。1989年、日拓アミューズメント株式会社に入社。95年に退社。日焼けサロンを展開。2001年、飲食店1号店「VAMPIRE CAFE」をオープンし、翌年にダイヤモンドダイニングに社名変更。

株式会社ダイヤモンドダイニング http://www.diamond-dining.com/

【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2008年12月8日取材

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