2005.8.14
新川義弘



「大統領にサービスした男」、新川義弘。
グローバルダイニングの店舗を統括するNo.2にして、2002年の日米首脳会議の際、小泉首相とアメリカのブッシュ大統領を接客したことで、「サービスの神様」とまで言われた男である。過去にローリング・ストーンズのミック・ジャガーを接客した経験もある。その新川氏がこのほどグローバルを退社、リンク・ワン常務として再スタートを切った。新川氏にその移籍の真相と、新たなる事業構想を聞いてみた。








人の育成で、長谷川社長とは意見が食い違う

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新川さんがグローバルダイニングから、8月1日にリンク・ワンに移られると、リンク・ワンのホームページのプレスリリースで、最初に見たときは、天地が逆転するほど驚きました。
 グローバルの5月19日のプレスリリースで、既に、新川さんのCOO(最高執行責任者)、取締役兼執行役退任は発表されていましたが、実際のところ、なぜ、辞められたのでしょう。新川さんは、グローバルで、長谷川社長の後継となって、いずれ社長になるものだと思っていました。


新川 
まず、申し上げたいのは、私はグローバルを非常に円満に退社しています。 どんな会社でも上司と部下の間で、溝やあつれき、対立のない会社はないんです。長谷川さんと私との間の溝は、当然ありましたが、ポジティブな溝でした。言いたいことが言える関係でありましたし、彼と私の関係は、今でも良好です。
 この4月、5月の連休明け頃までは、グローバルを辞めようとは、みじんも思っていなかったんです。ただ、グローバルがこれから行くべき方向の中で、疑問はあった。それが、人の問題でした。


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つまり、人材をどう育成する、評価するかなどといった問題ですね。


新川 
私は20歳で長谷川実業(グローバルダイニングの旧名)に入って、21年数カ月。店舗数が5店か6店の小さな企業体の皿洗いのアルバイトから始めて、6年後には役員にならせていただき、IPO(株式公開)も経験させてもらいました。経営者の1人として、会社の一部始終を見てきた立場から言うと、企業が成長していく過程で、残念ながら絶対無くしてはいけない部分が、消えていくところがあったんです。
 そのうちの大きなファクターが、人だったということですね。
 ちょうど上場する頃のグローバルは、年商85、6億くらいでしたが、IPOをして、対株主の問題が出てきた時に、今までにできていたことの優先順位が、必ずしも一番ではなくなってきた。それが人材の育成であったり、人に対する評価の仕組みであったり、人の扱い方や処罰の仕方であったわけです。         

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グローバルといえば実力主義。それに憧れて入社する人が多いとも聞いています。


新川 
がっちりした実力主義のフレームワークは、目標を達成できなければ、その地位にいれないシステムでもあります。義理とか人情の話ではないんです。
 たとえば、Aさん。彼は3年後のゴールセッティングとして、「代官山のタブローズの店長になりたい」と、考えていたとしましょう。それに対して私はAさんに「君は理論も理念も持っているけど、数字の詰めがちょっと甘いね」とか、コミュニケーションを取りながら、スキルをぶつけ合ってこそ、上司と部下の関係だと思うんです。
 全ての部分で、平均的に能力がある人。あまり魅力ないです。凸凹があって、凹のところを育ててあげて、悩んでいればアドバイスをして、お互いに共有し合って、チームは成り立つのだと信じています。営業部隊は私がキャスティングボードを握って、ずっと人を育ててきたんです。
 ただ、上場をして、対外的に数字を公表するようになって、これまで以上に時間の設定を厳しくしないといけない環境に追いやられると、待ったがきかなくなってしまった。


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いわゆる数字に振り回されるということでしょうか。ある種、上場企業の宿命のようなところもありますね。


新川 
「Aさん、結果が出ていないから、降りてください」。
 降りるのは仕方がない。そこは理解できたとしましょう。ところが、降りたあとでAさんが、どういう仕事に就いて、能力を伸ばしていかなければならないのか、アドバイスできる会社ではなくなっていったんです。
 人事が、使い捨てのようになってきてしまった。私の責任もあるが、人材が育っていくカーブをとらえきれなくなってきた。
 Aさんは半年の間に、売り上げの達成はできなかったが、利益は残すことができた。店長やチーフも輩出することができた。そういう場合に、Aさんに適切なアドバイスを与えて、次に行ってもらう道は、我々リーダーが探さないといけない。
 成長企業に本来必要なインキュベーション(孵化器)の役割が果たせなくなった。


17人の店長、チーフが抜けても高度成長できた

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グローバルが成長してきた理由には、インキュベーションが機能してきたと、考えられているんですね。

 

新川 
グローバルでの私自身の成功体験では、たとえば店長仲間で、「おい、新川の奴、ボーナス300万円もらったそうだよ。どんなふうにやったんだ」と。「あいつは、組織図の作り方が面白い。俺たちの店ではアルバイトは時給800円から雇ってきたけど、新川のとこは1000円からスタートだ。1000円をあげられる、ジョブ・ディスクリプションができているし、1カ月、3カ月単位の目標設定もできている」。
 となると、会社全体を巻き込んで、新川の成功例を学習して、会社のスタンダードになっていくわけです。そういう積み重ねがあった。だから、私は人の上に立てたんです。
 外食全体のマーケットがしぼんできたという環境変化もあるが、グローバルの成長のカーブが緩くなってきた時に、学ばないといけないのはディフェンスじゃないですか。今まで以上に、人件費、原価のような経費の見直しを行っていくわけです。
 しかも、アグレッシブなことも、並行してやっていかなくてはいけない。そこのアグレッシブな部分で、長谷川社長と私で、決定的に違っていたと思うのです。

 

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その決定的な違いとは。

 

新川 
私は時間をかけて、人材を育てていくべきだと考えていた。そのための目標設定もできていました。半年で建て直せるイメージを持っています。でも、長谷川さんとしては、甘いんじゃないかと、そのやり方で大丈夫かというのがあった。なぜ、短いタームで、人をジャッジしないのかと。
 今までは信頼関係で成り立っていたのに対して、がまんがきかなくなって、長谷川さんが直接、私や直属の部下を飛び越えて、あのAは大丈夫かと、言うようになってきた。
 足りない人材は、外から連れてきて補おうといった考えでした。

 

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2000年前後の、グローバル上場直後に、多くの人が抜けましたね。今年4月25日の日経で、長谷川社長のインタビューが載っていて、「次々に幹部が抜けて、私の苦笑い体験だった」と、おっしゃっていました。『アリガット』(現在は休刊中)という、当時評判だった外食雑誌は、次から次へと、グローバル卒業生を登場させて、喝采を浴びていた。
 今の新川さんのお話は、それともリンクするんですか。

 

新川 
いや、そこは長谷川さんと、意見が違うんです。IPO後に人が抜けるのは、世の常です。それまで、起業するのが夢だったなら、数千万円入れば、辞めるのは自然の心理ではないですか。
 当時のグローバルは30店弱だったんですよ。その時に17人の店長とチーフが辞めたって話を、長谷川社長がいろんなところでしてるんです。
 私は、全くの想定内。それくらいは辞めると思っていた。その次に、虎視眈々と店長やチーフを狙っている者がたくさんいたから、何にも恐くなかったです。
 危機ではありましたよ。とてもつらかった。でも、それは企業が、それまでの殻を破ってさらに成長するための、産みの苦しみだと思っていました。

 

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しかし、あまりにもったいない人もいたのではないですか。カリスマ店長と言われたその人たちは、新川さんを尊敬していたと思うんです。

 

新川 
「ようし、ポストが空いたなら、俺がやってやる!」という、エネルギーのほうが強かった。私は背中を押していましたよ。お前ら、チャンスだぞと。
 現に2000年、2001年は、グローバルの業績は一番伸びたんです。
 その頃辞めた、植木(「レストランJ」代表)も、鴨井(「カフェマングローブ」代表)も、フトシ(古里太氏=「フルトシ」代表)も、石田(「サイタブリア」代表)も、渡邉明(アートフードインターナショナル代表を経て「AWキッチン」代表)も、それぞれみんな本当に優秀でしたよ。アントレプレナーシップも、抜けていました。
 私は辞めてほしくなかった。誰一人。
 しかし、グローバル卒業生が成功してくれるのは、本当にうれしい。長谷川さんがどう思っているのかは知らないけど、ライバルじゃないですよ。我々は独特の客層を持っていて、マーケットが広がっただけなんです。
 ただ、彼らが抜けたあとで、伸びたグローバルの業績は、新しい店長、チーフたちの力ですよ。そこはきちんとフォーカスしてあげないと。新卒を初めて入れたのも、その2、3年前でしたが、新しいエネルギーが芽吹いている実感がありました。

 

ブッシュ大統領が『権八』に来たのは偶然でない

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あの頃の業界の雰囲気と言えば、「グローバルはもうダメだ」とか、「グローバルはファミレスにすぎない」という雰囲気まで醸成されて、長谷川さんに代わって、月川さん(ソーホーズ・ホスピタリティ・グループ社長、現会長/2004年5月に会社更生法申請)がカリスマになっていました。ファミレスが悪いというんじゃないですよ。空間重視のレストラン・オーナーが、よくそう言っていたということです。
 顧客に「あなたの店はグローバルみたいだ」と言われると落ち込み、「いやあ、ソーホーズのようでしょ。トイレの仕掛けがどうの」と、説明し出す店もあったくらいでした。

 

新川 
最高じゃないですか。逆風の中で勝ち続けるんですから。これだけの独立採算制で、それぞれの店長、チーフに、「お前らの店だよ。お前ら次第で店は変わるんだ」とゲタを預けている、仕組みを重視する会社ならば、そりゃ“21世紀型ファミレス”ととらえる人もいるでしょう。
 では、「ファミレス」の定義は何か。「ポピュラー」ということでしょう。それは、メジャーリーグに入っていく時に、越えなければならない壁だと思います。「ファミレス」というのは、ブランドビジネスの中で、必ずしも悪い表現ではない。
 渋谷区、港区、中央区の一部では、そのようにささやかれ始めたけれど、全国区になっていった証明だと思うんです。
 2002年2月に、西麻布の『権八』で、私が小泉首相とアメリカのブッシュ大統領を 接待した時に、たぶん、その直前に辞めた人たちは、みんな本音では悔しかったと、思いますよ。自分がやれたかもしれないという悔しさ。あったんじゃないかな。

 

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どういう経緯で、ブッシュ大統領と小泉首相は、『権八』に来ることになったんですか。

 

新川 
これは偶然じゃないんです。我々がブランドビジネスを大事にして、いらっしゃったお客さんにベストなサービスができて、アメリカ大使館と信頼関係を結んでいたから、ハワード・ベーカー駐日大使(当時)が、『権八』を指名して下さったんです。
 異例のことです。通常、国賓の場合は、外務省がオーガナイズするんですよ。
 ちょうどアメリカが、アフガニスタンと戦争をしていた頃ですから、日本とアメリカの友好関係を世界に発信したいということで、アメリカ大使館がオーガナイズしたんです。
12カ国のメディアが、押しかけました。
 警視庁や外務省とは交渉しましたが、お客さんはサクラじゃないんです。身辺警護のSPはたくさんいましたよ。大臣のせがれのような人も、たくさん入れてあげました。でも、半分くらいの人は、『権八』に普通に予約して入った人たちです。
「申し訳ないですけど当日は、ウチのオーナーのプライベートなパーティーがありますので、お手数ですが、入口のところでお名前ですとか、個人的な情報をお伺いする可能性がありますけど」とお断りして、フルネームと電話番号を、聞き出しはしましたけどね。
 当日いらっしゃったお客さんは、さぞかし驚かれたでしょう。

 

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ただ、そうして建て直したにもかかわらず、なお、人が辞めたわけですよね。ADエモーションの中村文裕社長は、さらに前に辞めていましたね。

 

新川 
フミ(中村氏)は上場前の96年に飛び出して、自分の預貯金と、銀行からの借り入れで17坪の小さな店から始めて、今、あのような企業体になっている。本当に凄いことです。彼こそは、グローバル卒業生で会社を起こして成功した、パイオニアですよ。
 グローバルにいた頃から、タダ者ではないと、思っていました。
 95年でしたか。フミがL.A.(「ロスアンジェルス ラ・ボエム」店長)から3年ぶりに帰ってきて、久々の自社物件として、代官山の大きな「モンスーンカフェ」の店長に就いた。会社としても、非常に力を入れたんですが、残念ながらフミが目標を設定できない条件が、できあがってしまったんです。
 彼は副店長に降格になり、悩んで辞めてしまった。結果的には良かったと思いますよ。

 

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先ほどの人材が育って来ないという話は、その話とはリンクしていないんですか。

 

新川 
長い間の根っことしては、フミから始まっています。何で、辞めたんだろうと。
 90%は日々の業務に没頭していましたが、10%くらい頭の片隅に常にあって、紐解きたいけど、紐解けない自分がいる。紐解いたところで、フミは戻って来ませんから。植木も、鴨井も、フトシも、石田も、渡邉明も、みんな戻って来ませんから。
 とどの詰まり、私が辞めた理由も、酷似していますよ。将来的なビジョンが長谷川さんと違ってきましたねと。そこで、軌道修正できれば残るし、できなければ辞める。
 人から良く言われるのですが、面白いぐらい、長谷川さんと私は、兄弟のように性格が似ているんです。外食の会社で20年以上も、1つの会社に勤めるのは、珍しいです。
 まあ、兄弟喧嘩の延長線上で、そろそろ独立させてくださいということですね。今更、長谷川さんとの間の溝でもないです。
 よく喧嘩もしましたけど、いろいろお世話になりました。

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