フードリンクレポート

老舗ブランド再生のプロフェッショナル

ユニマットキャラバン株式会社
カフェ&レストラン事業本部 取締役本部長
金井 伸作

09.01
 外食企業のプロ経営者として、自社開発のカフェやレストランを企画・運営を行う一方でM&Aによって同会社のブランド群となった「カフェラミル」「オーバカナル」「ドゥリエール」「可否茶館」「キャラバンコーヒー」などの老舗ブランドを長寿業態・成長基調に転換させることを得意とする男。
 際コーポレーションの中島社長から同氏ブログ上で「この男、飲食のプロフェッショナル」と高い評価を受けている。
 フードリンクセミナー『30年続く店作り』(9/26開催)の講師でもある金井氏に講演のさわりを伺った。


「オーバカナル紀尾井町」(新店)

目の前のお客様に「また来るよ!」と言ってもらえる店作り

 現在では外食産業にも投資効率という観点からビジネスゲームが加熱しました。グルメブームにより、投資対象として外食が見られるようになりました。そして飲食企業の急拡大路線につながります。

 しかし、もともとの日本にあった業(なりわい)としての飲食店の持つ雰囲気や外食時のドキドキ感、文化・伝統がどんどん壊れていく感があります。

 飲食は本当にニーズのあるところに、お客様に真正面から向かっていけば、バサバサ斬られるようなものではない。あまりにも無理やりに隙間を見つけて出店し、バタバタつぶれていく。これには決別しましょう。

 クーポンや割引販促合戦から撤退しましょう。(これは競争ではなく外食産業全体の体力を失います。適正ではないコストで粗悪連鎖スパイラルの原因ではないでしょうか?)割引や広告のコストを原材料費やお店の美装。労基法を無視した人件費の搾取などせずに、適法に支払い、死にもの狂いでお客様のお相手をしているスタッフに使いましょう。

 目の前にいるお客様に「(明日も)また来るよ!」と言ってもらえる店作り。それでお客様を呼べるようにしましょう。



老舗で「ローリスク・リーズナブルリターン」

買収した事業は、もう賞味期限が終わったと言われた店ばかりです。多くの方から「オーバカナル」の原宿店が無くなった瞬間に、「オーバカナル」は終わったと言われました。

*キャラバンコーヒー事業 1928年創業(横浜の老舗コーヒーロースター)
*可否茶館事業      1971年創業(北海道最古のコーヒーロースター)
*ドゥリエール事業    1982年創業(ミルクレープ・シフォンケーキの元祖)
*カフェ・ラ・ミル事業  1985年開業(オーセンティックな高級喫茶店)
*オーバカナル事業    1995年開業(日本におけるフレンチカフェの名店)

 でも、マーケットから終わったと言われてからが(も)商売です。重たい減価償却も終わっているし長年凌いで足腰も強い。視点を変えうまくやれば、あとは利益の横ばい基調が取れる。吟味すれば「ローリスク:リーズナブルリターン」という戦略もありますよね?

 過去に光ったということは、何か良いコンテンツがあったはず。それを遡って、今に持ち帰って検証する。路線変更でやっていけるんです。長年放って置かれた「カフェラミル」はダサくなっていたけど、ある二つの点で事業性に安心感があったんです。(セミナーでお話します)

 20〜30代前半は新しいものを求めたがる。しかし、30代後半になると永く行ける店が良くなってきます。

 

1つの業態を環境に対応しながら永く守るのは大変

成功体験が邪魔し改善や変更にコンサバ(保守的)になって動脈硬化している場合が多い。そして埋もれて忘れられていく。

 しかし古くて忘れられていても、数字がそこそこの状態の場合なら改善個所を拾い積極的にトライしてしまうんです。瞬間的なら匙加減を失敗しても長寿業態は大丈夫なんです。悪く言うとレスポンスが鈍いんです。何度でも飽きずに改善を繰り返す事で、現状のお客様を離さずに新規のコンサバな(新業態や情報に無関心な)お客様も定着します。

 

「見殺さない」と「掃除」が際コーポ中島社長との共通のキーワード

中島さんが「オーバカナル」の大ファンと聞いてました。紀尾井町がオープンの時、「オライアンの岡さんのオーバカナルは本物だけど、ユニマットがやる新規のオーバカナルなんて「なんちゃって」でしょう!」と言われていたと風の便りに聞きました。でも、ある方が実際に中島さんを弊社で開店した紀尾井町「オーバカナル」に連れてきてくれました。

「現在では設備投資が過大な筈のオーバカナルが安普請にならず、忠実に再現されているし。オペレーションにも問題は無い。ましてこのロケーションを選ぶなんて嗅覚が優れている」とお褒めのコトバをいただきました。誰がやってるの?ということで中島さんと出会いました。

 中島さんの店は「混沌と猥雑」を融合させ、これに、高級食材・高級料理であった北京ダックをはじめ、フカヒレ、スッポンなど本物の食材を廉価で提供することで成功しています。これが業態素材の見極めと調達力。業態開発・マーケットの創造といった一貫した店作りに反映されています。

 トリュフやフォアグラなどフレッシュな物が手に入りだしたのも20年程度前です。これらのマーケットの創造をしたのは海外から帰ったシェフ達が作り上げてきたものです。あらゆる商材は商社を利用すればなんでも調達できる便利な時代になりました。しかし中島社長は、自分自身で商社機能をもこなすし、北京ダック用のアヒルから食材、内装什器、食器など全てを自社で調達・開発する、この創造性と機動力、開発力が際コーポレーションの強みでしょう。

 私は中島さんの店のファンです。際コーポレーションの約300店舗の内、180〜200店は訪問しました。何度か中島社長とご一緒した時に、ヘビーユーザーとしての悲しみや怒りを直接ぶつけて見ました。(お互いの店舗や同業他社を引き合いに出しながら…) 

 それは下記のようなことです…

・初期の店舗の汚さやMDからの大幅な乖離。
・経営資源(利益)を新規開発の投資だけに集中しているので、既存店は放ったらかし。
・経営者が新業態の開発に夢中。

 会社を支える初期からの店舗や収益の悪い店舗こそ社長直轄でみるべき! 不採算の事業にはあまり興味を示さないし、従業員のせいにするのはいかがなものかと。業態開発総責任者として、見極め店舗(業態)の終焉や変更はトップにしか出来ない仕事。といった内容でした。

 その席で中島社長から最初の2時間ほどは、貴方(私)に、なにがどこまで見えるの?といったお叱りの内容から自説を伺いました。一通りの話を伺ってから私の観点・論点をぶつけてみました。

 お互いの店舗の既存店・コアブランド・新店等、ざっと20〜30の店舗のパワーポイントからウイークポイントを一店舗あたり20〜30位の仮説と改善案をそらで申し上げました。個店毎の状態や現状をあまりに詳しいのでびっくりしてた様子でした。当然に状態目標・数値目標、撤退判断等を交えながら…

 この観点・論点・それに対応する改善案をざっと並べたことで、経営数値に置き換えられる視点と改善実行出来るオペレーションマネージャーとしてのお前はすごい!と言っていただき、以降もお付き合いをさせていただいております。


一時代を築いた「カフェラミル」には、ダサいけど安心感があった!

 浜松町の貿易センタービルから始まった「カフェラミル」は主要繁華街・オフィス街を中心に23年間という歳月の間、現在まで45〜50の店舗を出店し続け、採算化の困難なロケーションやビルの立替による退店を繰り返しながら25店舗前後の店舗数を維持しておりました。  


「カフェラミル東急本店前」

 着任時の状態は…。初期の素晴らしいコンセプト・MDからの大幅な乖離、経費削減によって美装投資は長年皆無、専門店としての商品知識の未熟、コンセプトキープのマネジメントの不在。ブランドの経年劣化による新たな物件取得が困難等。あらゆる面から最悪でした…

(セミナーではどのような取組みによって輝きを取り戻し、既存店売上下降トレンドからの脱却や利益の大幅な改善、デベロッパーからの誘致の増大に繋がったのかを論点に申し上げます)



あまりにも強烈であった原宿「オーバカナル」の閉店とM&Aの衝撃!

「オーバカナル」の主顧客層は外食業界や報道関係者・ファッション業界のトップや文化人、多くの在日外国人の方々に支持され、良し悪しは別としても注目度の高いブランドでした。

 とりわけ、原宿「オーバカナル」はこのブランドの旗艦店でもあり象徴的なお店でした。しかしビルの建て直しによって閉店が決定しており、M&Aの対象外でありました。閉店が決まってからの原宿店では、にわかにマスコミや顧客の方々で閉店を惜しむファイナルカウントダウン的な盛り上がりを見せ、ファイナルに向けてのイベントや媒体からの掲載依頼が殺到し終焉ムードたっぷりという状態で、赤坂店・大崎店・港北店・博多店を譲り受け弊社での取組みが始まった訳です…

(セミナーでは何故M&Aに踏み切ったのか? M&A当初、私が策定した事業の方向性と中期事業戦略を実績を振り返りながら申し上げます)


食道楽の家庭で育った

 東京生まれで父が政治関係の仕事をしており、叔父が「若羽黒」という相撲取りの「大関」だったこともあり、食道楽の一家で育ちました。流行や老舗のレストランに家族で行くことが多かったです。

 中学・高校の春、夏、冬の休みの全てで海外に出されホームステイを利用して米国、英国、オーストラリア、フランスなど様々な国に何度も行きました。特に、英国やオーストラリアでの、飲食店は不便で洗練されてなかった。食欲・味覚が満たされませんでした。これが逆に食に強く興味を持つようになったきっかけです。

 1才上の兄が、高校卒業後、辻調理師師専門学校に入学(その後スターバックスジャパンの創業期から参画し500店舗程度の時まで様々なカテゴリーオフィサーを歴任後、現在は羽田空港に常駐し、羽田の飲食店全店のコンサルを行っている)私もその後を追って辻さんに入りました。調理師になるためではなく、レストランマネジメントになるためです。当時はソムリエの資格など無く、サービスマンの地位は低く見られていましたから調理を知らないと調理場主導の業界で生き難いと感じ、最初は調理から入った方が良いと思っていました。



100億円事業のマネジメントをしたい

 初めて飲食で働いたのは、表参道「レストランジョエル」です。最初からサービスマンでした。給料が安いので、ダブルジョブを始め、早朝は八重洲富士屋ホテルでも働きました。個人事業主の下で働くことと、組織で働くことの違いを同時に見つめることによって経験という時間を短縮しました。

 最初から自分で企業する気はありませんでしたし、飲食ビジネスで100億円の事業のマネジメントが出来るようになりたい。生業(なりわい)ではなく事業というサイズで飲食を見てみたくなったんです。

 20代前半で同業種・同年代の方々と比べて、私が見てきた本物の数が違うことに気付きました。 博物館や絵画館を含め多くのレストラン等「現地で本物を見てきた」ということを周りの方は重く受け取ってくれる時代でもありました。


「ロオジェ」の個室で日本の経営トップ達から学んだ

 22歳で資生堂に入社し、「ロオジェ」に配属。資生堂に来たばかりの総料理長のジャック・ボリー氏に気に入られました。フランス料理の世界で「コミ」と呼ばれる下働きで入ったのですが、1ヶ月後には黒いタキシードを渡され、正式に接客を許される立場になりました。

 当時は「ロオジエ」も含めクラシックな料理が主流の中で、ボリー氏が来てから「ロオジェ」はヌーベル・キュイジーヌを提供。 私がそれを知っていたので重宝がられたんです。

 昼は1部屋しかない貴賓室(個室)担当になりました。3年半、毎日、日本のトップの方々のビジネスランチを室内でヒアリングさせていただきました。担当は個室内に常駐し対応しますので、個室の中で漏らさず時代を動かしている彼らの話を聞けたんです。

 自分にとって足りないもの、追いかけるべきものの指標がみつかりました。例えば、「資本政策」や「デューデリ」というコトバ。飲食の方々では普通は出会わないコトバでしょう。私は、その時々に出たキーワードをメモして、午後の休憩時間に隣の福屋書店で意味を調べることを日課にしていました。(中にはM&Aの商談も多数有り、後に私が行ったM&Aを実践出来たのもこのお陰です)

 一流の経営者達のセミナー(レッスン)を3年半、毎日受けていたようなものです。


700席のレストランを黒字に

 次に、店を企画・デザインする仕事に付きたいと思い「藤越」に入社。東京・青山の「ブラッセリー・シュシュ」という大型店の企画や、新店の「赤坂離宮」の開発をさせていただきました。(青山のブラッセリーでは開業後、オーバカナルのコンセプトメーカーの福島氏(現アースステップ社長)が料理長で私が支配人という関係で営業していました。
 
 その後27歳で東京ガスとプロデューサー岡田大弐氏が企画した「ザ・ガーデン」という570坪700席、客単価8000円の店が開店。東京ガスの飲食子会社で開業時から支配人として送り込まれました。(初年度は岡田氏の会社に運営を委託)2年目から私達プロパーで東京ガス子会社の自己運営に転換しました。しかし初年度から2年半は大赤字。初年度は3億円を超える赤字。3年目にようやく黒字化しました。初年度売上は8億円位でした。結局、その会社に12年間在籍し、ウォータフロントブームが去った難しい立地ながら、初年度の売上を下回ったのは1度きりです。最高で9億2千万円までいきました。利益は倍々で増え、最後は1億円程度出ていました。

 同時に早くからレストランブライダルにも着目し有名店となりました。土日はウェディングで稼ぎ平日は夜に特化しました。屋外で300坪のビアテラス、店内の半分をイタリア料理、もう半分をフュージョン料理。客単価も高低を設け、お客の利用動機により使い分けられる店にしたのが勝因です。

 オペレーションのトップとしては楽しかったです。東京ガスの子会社としては利益至上主義ではないけど赤字は出すなと言われ、裁量を任され自由に働けました。次の展開(新業態開発:銀座、表参道、恵比寿)も企画開発部長(当時)として提案し出店をしました。最近では他社のダイニングバー業態は苦戦しているようですが、現在も高収益事業として盛業中。

 後には、東京ガスの他関連会社が経営していた金沢八景の和食レストラン(約300坪)の不採算店舗の移管を受けたりもしました。元々、ロイヤルさんが運営受託していましたが、赤字だったんで、うちに移ったのです。翌年から120%以上の売上と15〜20%の利益を出し続けました。開業して15年ほどになりますが、現在も地域一番店としてしっかりと盛業しています。


ユニマット社長が初対面で「飲食を任せる」

 華僑の投資家からジョイントベンチャーで一緒に仕事をしようと誘いを受け、今後の東京ガスは外食事業の拡大路線は無いという事だったので会社を辞めました。ところが、いざという時にサーズや鳥インフルエンザが流行し、自分のビジネスが大変なんでちょっと待ってくれ、と言われてしまいました。

 違うエンジェル(投資家)を探そうと、作ったビジネススキームを持ってユニマットにプレゼンを行った際。社長から「君は起業がしたいのか、事業がしたいのか?」と聞かれ、ミクロではない事業がしたいと回答すると、「うちの飲食を任せるからやりなさい」と言われました。履歴書や経歴書に一瞥もくれず、初対面の面談で即決でした



新店「スパイブル天王洲」:ヨーロピアン(ベルギー)ビアカフェ(今後積極展開)


新店「ディアーナ天王洲」:イタリアンバール(2店))


新店「ディアーナ下北」


新店「五楓銀座」:焼酎専門の和食(恵比寿・銀座の路面店)


新店「ニナス恵比寿」:フレーバーティー専門のカフェ(現在16軒)




老舗をリモデルしながら、良いブランドに仕上げていく

「オーバカナル」は閉鎖する原宿以外の店舗の利益を勘案して営業権を買いました。旗艦店を出せば原宿店の分の営業権はタダということです。そこで新たな旗艦店として紀尾井町店をオープンしサテライトで京都店と銀座店を出しました。現在の利益は買収した時の約2.5倍になります。

 M&A業態の受け入れや内部統制は面倒で本当にタフなんです。労務環境や給与規定などが様々ですし、営業年数の永い事業ほど人員の年令層が間延びしていますから。自社の給与規定に合わせにくかったり、また、老舗や過去の成功業態の方々は成功体験しか持ってないので、化石になってしまっています。最初は何事も「NO」や「拒絶」から始まります。「オーバカナル」や他のブランドのスタッフの頭を切り替えるのに2年掛かりました。

 飲食に携わる創業経営者の方々の大半は、新業態や店舗を作るのことが大好きですね。でも、私は地道な経営が好きなんです。新規に業態を開発し出店もして参りますが、それは自社や他社の素晴らしい感性の方にお任せして、(私にその感性があるとはとっても思えない!)それよりはしっかりしたブランドの買収とその再生を続けて、現社長(数年でユニマットオフィスコを東証1部に上場させた高澤清一社長)とユニマットキャラバンを現在の115億円程度の年商から500億円程度の会社にしたいんです。
 
 着任時、約100店舗の飲食事業部門の成績は店舗段階で約5億〜7億円程度の赤字でした。3年半経った今、約100店舗で今期6億6千万円(店舗段階)の利益計画を持っています。4月〜7月の成績は2億1千万円(店舗段階)の利益を確保。本当に楽しみになりました。

 私達の事業本部は「質の高いミドルカジュアルのブランドコングロマリット」が戦略です。フェンディやグッチといった老舗ファッションブランドも踊り場から蘇りました。同じことを飲食でやりたいんです…




金井 伸作(かない しんさく)

1965年生まれ。資生堂に入社し「ロオジェ」を配属。東京ガスの外食子会社に入社し、「ザ・ガーデン」など様々な新業態を開発。2003年のユニマットの「オーバカナル」買収とともに入社し、現在は飲食事業の総責任者として、買収企業の立て直しだけでなく、30年続く新業態開発の指揮を執っている。

株式会社ユニマットクリエイティブ http://www.uni-dining.com

取材 安田正明 2006年8月22日