株式会社 力の源カンパニー 代表取締役 河原成美氏
・成功への一歩は、目標を立てること
1979年11月に5坪の居酒屋、「アフター・ザ・レイン」を開店させ、6年後の1985年10月16日、博多大名に「博多一風堂」1号店を開店、「博多一風堂」の出店数を増やし、全国ブランドへと展開。ラーメンダイニング「五行」の運営、そして札幌、旭川、東京、尾道などのご当地ラーメンを一同に集めた「驛麺通り」のプロデュース。現在の(株)力の源カンパニーがあるのは、河原成美氏が自身で決めた目標をひとつずつクリアしてきたからである。
大学卒業後、河原氏はスーパーマーケットへ就職し、そこで商品の横流しに手を染めた挙句に、留置所へ入った。出所した後、自分がどんな道へ進むべきか考える。
河原氏には、舞台の仕事をやりたいという夢があったが、最終的に選んだのが5坪の居酒屋であった。やるからには、絶対に流行る店にしようと決意した。
河原氏は4人男兄弟の末っ子であり、優秀な兄弟の下で育ったが、少々甘やかされて育ったようだ。進学から就職まで両親や兄弟がコネを使って決めてくれたこともあった。河原氏は、ここで頑張らなければ一生ダメになると考え、いくつかの目標を立てた。
この時に決めたのは、まずは3年間休まないこと。
そしてお客が一人も来ない日を作らないこと。台風や大雨の日に店を開けるのは辛かったが、河原氏は台風で誰もお客が来ない日も、常連客に電話営業をして来店してもらうことで、何とかこの目標を達成した。やがて店は5坪で150〜180万円を売り上げる大繁盛店となる。
河原氏が次に決めていた目標が、30歳までにもっと広い店へ移ること。33歳でもう1軒店を出す。そして35歳までに天職を見つける。それに伴い、20代で年収500万円、30代で年収1000万円という目標を掲げた。この年収に見合うだけの仕事をするのだと決意した。
32歳で博多一風堂を開店。それまでの豚骨ラーメン店のイメージは、女性が一人で入れるような店ではなく、臭くて汚い店が主流。このイメージを払拭したのが、一風堂で、清潔で女性も入りやすい店とした。開店当初はお客の「綺麗な店はおいしくない」という先入観でなかなか繁盛しなかったというが、少しずつそのおいしさを認めるお客が増えてきた。
88年には、玄海ラーメン爽風亭、89年に居酒屋「岩戸町 松の湯」を開店し、37歳で4店舗を運営するオーナーとなった。
・ラーメン店の経営こそ自分の天職
商売は順風満帆であったが、35歳で天職を見つける、という目標は未だに達成できなかった。そして、現金が手に入るようになると、ゴルフに夜遊びという遊び人お決まりのコースへ。
経営を人任せにして真剣に向き合わなくなってくると、店舗の売り上げは少しずつ下がる。40歳になる頃には、2000万円の未払い金が出来てしまった。河原氏は、「自分が目標設定を外れたから」と当時を振り返る。
再度、店の建て直しを計ろうと決意した頃、フードテーマパークの出店のオファーが入った。94年に新横浜ラーメン博物館へ出店。新横浜ラーメン博物館は大ヒットし、一風堂はわずか14坪、従業員3人で、2200万円を売り上げた。このとき、河原氏は首都圏の人口の多さ、ラーメンに対する関心の高さに心底驚いたという。2000万円も綺麗に返済した。
一風堂のラーメンスープは、豚頭からとったスープとげんこつからとったスープの2種を混ぜたものがベースとなる。豚頭のスープの煮込み時間は20時間以上かかるため、河原氏は営業時間終了後もスープを取るために、新横浜ラーメン博物館店に泊り込む日々が続いた。
夜中、スープを煮立てている時間は寝るわけにもいかず、暇である。このため河原氏はもう一人のスタッフと共に、他店の厨房へ潜り込み、視察を行った。醤油ラーメン店ではどんなメーカーの醤油を使用しているのか、鰹節や煮干しはどんなものか、では味噌ラーメン店ではどのようにスープを取り、味噌はどのようなものを使用しているのか。
後に河原氏は豚骨のみならず、多くの味わいのラーメンを作成するが、この時の他店の厨房チェックの経験が非常に役に立った。
97年11月、河原氏は新横浜ラーメン博物館の大成功から、TVチャンピオンラーメン職人選手権へ出場。この大会で見事に優勝を果たした。優勝した時、河原氏は初めてラーメン店を運営したことに感謝し、これが天職であったのだと気づいたという。
探していた天職は、32歳から始めたラーメン店の経営だったのだ。河原氏が44歳の時である。河原氏の長い間の迷いが無くなり、ラーメン一筋でいこうと決意した。
著書へのサイン
・一度ドアを開けたなら必ず前へ進むこと
河原氏の父親は、「人には無限の可能性がある」と教えてくれた。河原氏は、人間には無限の可能性があるけれども、選べるのはひとつだけだと語っている。
「たくさんある可能性の中で、選べるのはひとつだけ。目の前にはたくさんのドアがある。自分でそのドアを開けたら、迷わずに前に進むこと。
一度足を運んだら、必ず前に進まなくはならない。ちょっとだけ進んでみたらそこはイバラの道だった。怖くてわからなくて、困難がたくさんある。だからすぐに引き返す、それではダメだ。
一度ドアを開けたならどんなに辛くても前へ進むこと。出口はまた必ずあるはず。そしたら、また新しいドアノブがある。その中でまた新しいドアを選んで、前へ進めばいい」
自分の内側にいる自分と向き合うこと。そして、内側にいる自分とある目標を約束したら、それを裏切らずに、出口までいくこと。そうしないと、人生はよくならない。
自分を信じて、新しいドアを開ける、そしてその道を信じれば、人生は開けてくる。失敗からしか成功はありえない。だから失敗を恐れずに前へ進むこと。河原氏は熱くしめくくった。