・ビーチハウスでひと儲け
立命館大学の夜学に通っている時、太秦映画村近くの喫茶店に友達と入り浸っていました。そこの経営者と仲良くなり、「自分は滋賀でバーをやるから、友達と3人でこの喫茶店をやってみないか」と誘われた。家賃を払う約束でした。上に住むことができたんで、下宿代も浮くし、引き受けました。
1年間、その喫茶店を続けました。でも、毎日毎日、ハコの中にいるのがいやになってきたんです。
当時、学生サークル主催のパーティーが盛んでした。学生企業に入り、外国タバコのプロモーションの仕事、をさせてもらいました。その内、タバコ会社か認められ、関西地区で学生パーティーへの協賛を一手に仕切らせてもらえるようになったんです。タバコ会社の手足となって、一生懸命働きました。キャンペーンの仕事で、いろんな飲食店に出入りするようになった。この経験が今、生きてます。
神戸・須磨海岸でビーチハウスも学生企業で手掛けました。これが当たったんです。古臭い海の家ではなく、白い内外装で、円形のバーカウンター、ステージも作りました。当時、トムクルーズの「カクテル」という映画が流行っており、そのビーチバーをイメージ。海の家というと、昼間のシーンだけなんですが、夜のシーンも見せてやろうと。今では、よくあるパターンですが、当時は早かったですね。一時、3店舗持ってました。
・飛んだ! 東京へ
大学を卒業すると同時に、自分で会社を作りました。23歳で社長です。学生の時の延長で、イベント制作、飲食、アパレルなど色々なことに手を出しました。しかし、バブルが弾けると同時に私も弾けてしまいました。今から思うと色々な部分での詰めが甘かったです。でも実体験で経験という本当に大きな大きな財産を頂きました。借金と一緒にですが…。
28才で東京に出ました。借金をもったままです。友人がパチンコ店を経営しており、その中に机を借りて、2年間、パチンコ店や、ボウリング場などのプロデュースし、10件ほどつくりました。
また、だんだんいやになってきたんです。当時、パチンコ業界では主婦のパチンコ中毒で子供が車に置き去りにされる事件が多発していました。
自分で作ったものを人に喜んで欲しいと思い始めた。もともと自由が好き。自分がやりたいことと逆に、食うために働いている自分が許せなかった。
・創作料理が来る! ちゃんと副社長に
西麻布によく飯を食いに行っていました。7〜8千円のイタリアンが流行ってました。東京は高くても流行る。安くて、空間が良くて、おいしければもっと流行る、と確信しました。
大阪で「ちゃんと」に客としてよく通ってました。創作料理が面白かった。「ちゃんと」を東京に持って行ったら、イケル!と思ってました。「ちゃんと」も3〜4店舗になり、森田恭通が「ちゃんと」のデザインを始め出した頃です。余談ですが、森田恭通は須磨のビーチハウスでバイトしてたんですよ。彼とはその当時からの知り合いです。
東京でいっしょにやらないか、とちゃんと岡田賢一郎社長に話すと、岡田社長も考えていた、と答え、それから3日間ずっと話し合いました。「ちゃんと」をもっと大きくしたかったんです。また岡田社長は韓国料理店で働くなど元々、料理人であり、料理の世界に戻りたいと思ってました。そこで、岡田社長は料理に専念し、私は新規出店とバックヤードを担当するということで副社長になったんです。
「ちゃんと」の社員にとって突然やってきた副社長です。新任者の常套手段ですが、まずは、社内の構造改革に取り組みました。ダメなところを良くする。それが皆を納得させる簡単な方法です。
・「ノブ」に対抗して「ケン」
東京では、まず横浜クイーンズスクエアに出店。その後、西麻布に「ケンズ・チャント・ダイニング」をオープンさせました。当時、ニューヨークでノブ松久さんが人気だったんで、「ノブ」に対抗して「ケン」で世界に進出すると考え試金石にしようと思ったのです。それが見事に脚光をあびました。マスコミから注目されるようになりました。
店の流行る共通点は、サービスが良くて、空間が良くて、うまい、そして安い。それ以外は無い。しかし、東京ではそれ全てが合致している店は少ない。合致している店は、やはり大繁盛している。「ちゃんと」はそれになりうるのではと、ピンときたのです。
5年間で、ある程度目標としていたことは実現してきました。しかし最終的には方向性につき、岡田社長と衝突しました。やはりココは岡田社長の会社で、自分の会社ではない、そして自分は自分のやりたいことをしようと思いソルト・コンソーシアムを立ち上げました。
・次は、「ホンモノ」が来る!
創作料理は終わると思った。そこで、自分でも好きだったお好み焼き屋を始めた。
次の時代はよりシンプルで専門的なモノに戻っていくと思った。私の考えはこうだ!もちろんBarはHな方がいい。Cafeはゆるーいのが気持ちいい。美味しい小籠包が食べたい。焼き鳥を焼肉のように食べてもいいやん。犬の目線のマンション。夜景と音楽と映像と会話。ホンモノというか何となくつくりたいものをつくっているだけです。
お好み焼き「ぼちぼち」
お好み焼き「ぼちぼち」店内
・大阪の文化を残す!「道頓堀極楽商店街」
大阪・道頓堀の浪花座跡地のビルでアイデアを求められた時、アパレルを入れたよくある施設にするより、大阪の文化を作った方が面白い。じゃ、提案して、ということで「道頓堀極楽商店街」が誕生しました。
観光客に「大阪って素晴らしい」と訴えたかった。串かつ、たこ焼き、お好み焼きなどコテコテを40店舗集めました。昔の店は、焼いてくれるおじちゃんやおばちゃんの話もたこ焼きの味の一部でした。それを再現したかった。
大阪松竹歌劇団が100年の幕を閉じるのを見に行きました。これは残すべきだと関係者と話し合い、新たに「道頓堀極楽歌劇団」として毎日公演してもらってます。
「道頓堀極楽商店街」館内
「道頓堀極楽歌劇団」
・ミッドタウンに「オカワリ・ドット・ジェーピー」
三井不動産さんとの仲介役はブルーノートの社長です。社長と仲良しで、訪ねた時、たまたま三井不動産の方が来ていた。一緒に東京ミッドタウンに見に行ったんです。六本木に緑がいっぱいある公園を中心としたプロジェクトだという。
私は、川、海、緑の近くに必ずいるんです。「ビーチハウス」の須磨海岸、「道頓堀極楽商店街」の道頓堀川。ミッドタウンは緑があった。面白い!出店したい!と思いました。
リーシング担当の方と大阪で飲んだ時、意気投合。4日後には一緒にニューヨークに行きました。NYには友人も沢山いるので、案内してあげました。そして、「何か一つやりませんか」と言われました。それで出来たのが、「オカワリ・ドット・ジェーピー」。
ミッドタウンの中で気軽に行ける場所、インターナショナル・カジュアルがテーマ。コンセプトは世界で通用する「SHOKUDO」です。
何社も競合があったはずです。何でウチが通ったのかよく分かりません(笑)
「オカワリ・ドット・ジェーピー」狭い入口
「オカワリ・ドット・ジェーピー」店内
・合う人と好き勝手にやっていきたい
日時で決算しており、各店の実績は携帯電話に毎日入ってきます。気になるので、よく店に行ってますね。特に実績の悪い店は、早く立て直さないといけません。店が気になるので、遠い場所に出店するのは嫌です。事務所は西麻布ですが、お茶の水や丸の内に行くのも面倒だと思っています。
お客、スタッフ、会社がウィン・ウィン・ウィンの関係で行きたいですね。末端のアルバイトが楽しくないのは最低です。スタッフは、技術が良くても感覚が合わない人は辞めてもらいます。会社は自分の城だと思うので自分に合わない人は要りません。
上場は今のところ考えてません。付いて来てくれるメンバーを見ながら、自分が感じる素敵な空間を、好き勝手やっていきたい。そんなたくさん出店したいという欲はないです。
商売って面白いです。根性と気合があれば売上は違ってくる。「道頓堀極楽商店街」にあるたこ焼き「十八番」。新大阪にある名店ですが、口説いて道頓堀に出店してもらいました。30年間たこ焼きを焼いている方がいます。焼き方は芸術的です。その人には勝てない。たこ焼きに対する情熱が違う。その情熱がお客を呼ぶ。そんな職人さんを大切に残してあげたいですね。