・携帯電話販売員、全国1位に
同社は、現在、佐世保バーガー5店舗、実験中の高級クレープ店「クレープリーロウエル」1店舗、アパレル2店舗を経営。売上高は前期の3億五千万円から、今期は5億円にまで拡大する。
吉村氏は、高校まで佐世保で育ち、東京工科大学に入学。高校時代にジョージ・ルーカスの設立した特殊効果の制作会社ILMにあこがれた。東京の大学でロボットを作りを目指した。
大学時代から会社を興したいと思っていた。学生企業として企画会社を経営していた当時人気の斉藤大氏に影響を受けた。斉藤氏は、西麻布のホブソンズで行列ブームを仕掛けた有名な仕掛人。しかし、「企画は面白いが、それだけを売るのではなく、事業会社をやりたかった」と実業を念頭に置いていた。
アイデアを出すのが好きで、発明にかかわれる特許の仕事ができる弁理士になろうとした。国際特許事務所に2年間働いたが、弁理士の資格取得は諦めた。「仕事は書類作成がほとんどで、発明には携われなかった」と言う。弁理士では発明家との付き合いが事務的に過ぎず、アイデア好きの吉村氏には物足りなかった。
「人と関れる接客業がしたい」と、派遣で携帯電話の店頭販売員を始めた。それが全国1位になる。秋葉原のドンと言われる名物店長がサトームセンにいる。派遣会社がどんな販売員を派遣しても、ことごとく追い返されるような店長。しかし、そのドンに気に入られたからだ。
しかし、別の店舗に異動になる。「お客が少なくてヒマな毎日を過ごす自分が嫌になった」と、高給を捨てて販売員を辞めた。
いろんな経験がしたくて、フリーターとしてコンビニや、パソコンの電話販売など様々な職種で働いた。並行して、ピッツェリアをやりたいと、ピザーラでバイト。10〜20時はピザーラ、20〜翌7時はコンビニと寝る間も惜しんで働いた。イタリア・ナポリにも行った。
・ショットバーで成功し、おにぎりカフェで失敗
叔母が知り合いのインド人とインドレストランを始める際に誘いを受け、3人の共同出資でインドレストラン「ダージリン」を西池袋に始めた。「カレーは抜群に美味しかった」そうだが、3人とも方向性が違い、4ヶ月で店を閉めて別れた。組織のリーダーは1人でないと上手く行かない。
28才、高円寺に9坪のショットバーを開店。チャージなし、ほぼ全品500円均一のキャッシュオンデリバリー。スクリーンでスポーツを流し、ダーツも置いた。ちょうど2002年のワールドカップの年。若者が集まって連日満員。
高円寺を選んだのは、インドレストラン「ダージリン」時代に終電で帰る人々を見ていて、高円寺が降りる人が最も多かったから。高円寺は大手チェーンの実験店舗が多く「ここで成功すれば、大きくなれると思った」そうだ。
2号店は同じくショットバーで高田馬場に開店。こちらもワールドカップ人気で大繁盛したが、サッカー・ブームが終わった後、売上がストップ。バーはバーテンダー次第で集客が違ってくる業態。任せられる人がいないと店舗数を増やすのは難しい。
半年後、3店舗目のおにぎりカフェを中野・TSUTAYA横に開店。全く上手く行かなかった。他の2店舗の利益が、吹っ飛び、全体でも赤字に陥る。
おにぎりカフェの跡にできた「ザッツ・バーガー・カフェ」中野ツタヤ横店
おにぎりは、日本の伝統的なファーストフードとして当時、注目されていた。レインズの「オニー」を始め、おにぎりカフェの出店ブームが興った。しかし、コンビニもあり、競争は非常に厳しかった。
・故郷、佐世保でハンバーガーを教わる
実家の佐世保に帰って、3つの方向性を考えたという。
1)冬でも食べられる温かいもの
2)テイクアウトできるもの
3)おやつになるもの
奥さんも佐世保出身。一緒に馴染みのハンバーガー店で食べていたら、そこの女性店主から声を掛けられた。
夜はバーとして営業し、息子が店に出ていた。夜に行くと大きなバーガーを半分に切って出してくれる。ところが、昼行って同じように半分に切るよう頼むと、女性店主は半分に切ることを怒った。1個そこままがベストな状態で半分にして食べることは邪道だった。
その店主に「何の店やってるの?」と飲食店を経営していることを見抜かれ、吉村氏は「何で知ってんの?」という話になり、店主からハンバーガーやってみたらと言われる。
佐世保のバーガー店はどこも家族経営。多店舗展開は考えていない。店によって味が全部異なる。パン、パテ、トッピングの仕方が違う。ラーメンのような食べ物だ。
店主は、吉村氏に店独自の門外不出のハンバーガーを初めて教えてくれた。他からもお誘いがあったが断っていたそうで、不思議な縁を感じている。
その後、吉村氏は店で修行させてもらい、ハンバーガーの作り方を習った。
・「佐世保バーガー」名付け親
2003年5月に、不振だった「おにぎりカフェ」を改装して1号店を開店。地元に貢献したいと、「佐世保バーガー」と初めて名付けた。当時、佐世保では単にハンバーガーと呼ばれていただけで、吉村氏が東京で「佐世保バーガー」の看板を掲げるや、メディアでも話題となり、今では、佐世保でも「佐世保バーガー」と呼ばれている。吉村氏は商標取ろうとしたが、取れなかった。
「ザッツ・バーガー・カフェ」中野五差路店
「佐世保をもっと知ってもらいたくて名付けました。みんながイメージされる佐世保バーガーは、ウチのハンバーガーなんです」。郷土を愛している。
特徴は「調和」。たくさんの具材や調味料が一体となる。重ねる意味は、一体となって一つの味になること。「提供された時がベストの状態なんでお客に手を加えて欲しくない」と言う。
「一流ホテルのハンバーガーはパテの肉を主張しすぎ、肉は美味しいけれど、バランスが悪くなっている」と、調和を強く意識している。
従って、佐世保バーガーのジャンボは、横に大きい。だから口の中で一体となる。縦に大きいと、一口で食べられず、一体にならない。
オープンして半年「実は低空飛行だった。コンサルタントを入れて調査をした結果、宣伝が足りなかっただけだと分かってひと安心しました」と、開店当時を振り返る。
・ラゾーナ川崎に出店し認知度アップ
三井不動産から、ラゾーナ川崎のフードコートへの出店依頼が来る。ロイヤルティや保証金などの条件を下げてもらいようやく入居。オープン時は月商3千万円、今は1千8百万円。しかし、人件費も含めコストが高く、路面店ほどの利益率にはならない。
「ザッツ・バーガー・カフェ」ラゾーナ川崎店
しかし、これで一気に会社の売上高がアップ。商業施設の1店舗は既存店の3店舗分に相当。知名度もアップし、他のショッピングモールからお誘いが多くくるようになった。
本年7月に代々木に5号店がオープンした。その際、アルバイト募集をフリーペーパーで行た。時給850円にもかかわらず80人も応募があり、知名度が上がったのを実感したそうだ。
・目指すは、大人のバーガーカフェ
カフェスタイルでハンバーガーを提供し、酒も飲める大人のハンバーガーショップを展開し、東京、神奈川、埼玉で100店舗を目指す。現在の高円寺本店が今後のモデル店だ。
今後のモデルとなる高円寺本店
高円寺本店の店内
100店舗には問題もある。原価率を抑えて、店舗ベースの営業利益をもっと残し、強い本部機能を築くことが必要だ。
また、バンズは1号店から付き合っている小さなベーカリーが作っている。しかし、生産能力に問題があるので、大きなベーカリーから見積をとったりしているが、納価で2倍も高いそうだ。
「常に改善して日本一おいしいものを作りたい。付いて来てくれる業者を大事にしたい」
多店舗展開のための資金を考えると、フランチャイズという選択肢もあるが、当面は直営。但し、暖簾分けはありうる、と考える。
右腕として、現在の営業部長がSVのように全店を見ている。伸びる企業には2番手が育っているもの。その営業部長は、高円寺のショットバー1号店のお客。「ほとんど毎日来ていたお客なんです。いくら店で金を使ってくれたか分かりません。ある日、うちで働きたいと言ってくれました。今は、この部長がいないと会社は成り立ちません。」
アットホーム、フレンドリーな楽しい接客を心掛けている。「食堂のおばちゃん、商店のおばちゃんのように『今日も、佐世保バーガーと生ビールでいい?』と気さくにお客と会話できる接客をこころがけています。」
名付け親ながら、故郷を愛しその名称を幅広く使って欲しいと思う吉村氏。多くの力で「佐世保バーガー」の認知度を高め、フード以外の部分で差別化させるため、吉村流のオリジナリティを打ち出し、首都圏で100店舗体制を築こうとしている。