・2008年4月、シンガポール進出
高橋氏の率いるポート・ジャパン(PJ)グループは、国内では、ポルトガル料理「マヌエル」4店(渋谷、四谷、高輪、丸の内)、オーストラリア・ニュージーランドの料理とワイン「アロッサ」2店(渋谷、銀座・Velvia館)、シュラスコ「トゥッカーノ」2店(渋谷、秋葉原・ヨドバシ)、モダンオーストラリア料理「salt」(丸の内・新丸ビル)、ワールドワインバー「W.W」(丸の内・新丸ビル)、シンガポール料理「ラッフルズテラス」(銀座・マロニエゲート)などを展開。海外でも、ハワイでとんかつ店「銀座梅林」、中国上海と米国セントルイスでシュラスコ料理を展開する国際外食企業だ。現在16店舗を運営し、売上高は約20億円。
ポルトガル料理「マヌエル」高輪店外観
ポルトガル料理「マヌエル」渋谷店外観
ポルトガル料理「マヌエル」四谷店 店内
ポルトガル料理「マヌエル」丸の内店
業態を見て分かる通り、食文化の国際化に貢献している企業である。また、ポート・ジャパン・パートナーズを外食支援会社と位置付け、各業態毎に代表者を立てレストラン運営会社を設立し、両者がパートナー(夫婦)のように共存共栄する組織を独自に生みだした点に他の外食企業と異なる同社の特徴がある。
今年(2008年)4月にはシンガポールに進出し、100坪の和食レストラン「Takumi
Tokyo」を出店する。PJグループの炉端「檜家(ひのきや)」(移転のため現在休業中)と、ケーズカラナリープランニングの鉄板焼「円居(まどい)」の2業態による複合店舗だ。シンガポールの投資家からファンドを募り出店する。
米国の大学を卒業し、モルガン・スタンレーに入社。投資ビジネスを学んだ高橋氏だからこそできるユニークなレストラン・ビジネスだ。
・ヘッジファンドからポルトガル料理に転身
高橋氏は台湾生まれ。母親が日本人で10才の時に日本に来る。高校まで日本、そして米国の大学を卒業。1986年に米国の証券会社モルガン・スタンレーに入社。同社に7年間勤務。そこで知り合った香港の財閥に誘われ、香港で不動産・証券・M&Aの投資責任者として4年間を過ごす。
1995年に日本に帰国。ヘッジファンドの日本代表、ベンチャー投資・支援を個人で行っていた。そんな時に出会ったのがレストラン・ビジネス。
渋谷に1995年当時にオープンした、オーストラリアワイン専門店「ロックス125」という店があり、お客として通っていた。オーストラリアワインは当時珍しく、美味しくてリーズナブルと繁盛店だった。しかし、1999年にビルが古く建て替えとなり、同店のオーナーは六本木への移動を計画していた。
しかし、オーストラリアワインが気に入っていた高橋氏は、同店店長に資金を提供するので独立して、新築されたビルでオーストラリアワイン専門店をやらないか、と誘い込んだ。後に、この店が「アロッサ」渋谷店となる。
新ビルが完成するまで11ヶ月かかり、その間、店長に働いてもらうためにポルトガル料理店の開店を手伝ってもらう。以前から、日本でやれば流行ると思っていた業態だそうだ。
高橋氏は、香港時代に日本からお客が来ると連れて行っていたマカオで、ポルトガル料理に出会う。和食の天ぷら、コロッケのルーツ。炭火焼きがポピュラーで、国民一人当たりのコメの消費量は日本人と変わらないと言う。
「日本人がヨーロッパを旅して、和食が恋しくならないのはポルトガルだけだと言われているそうです。焼いたイワシに日本人は醤油をかけるが、ポルトガル人はオリーブオイル。そんな違いで、日本の家庭料理のよう。天ぷら、コロッケ、南蛮漬け、カステラと日本の食文化に大きな影響を与えた国です」と高橋氏。
日本に帰国後、ポルトガル料理店を探したが無かった。「東京には世界中の料理があると言われるが十分ではない」と思い、それがPJグループのルーツとなっている。
マカオの有名ポルトガル料理店「マヌエル」を経営するマヌエル・ペナ氏と日本にポルトガル料理店を初めて作ろう、と意気投合。手伝ってもらうことになる。
渋谷で15坪の蕎麦屋の空きがでて、そこに開店させるために日本人スタッフをマカオで修行させた。和食と近いため日本人だけで調理できると勘違いし、2001年にオープン。しかし、味が安定せず不振。マカオからシェフ2名を派遣してもらい、ようやく月商500万円に成長した。
それが「マヌエル」。
日本にも隠れポルトガル・ファンはいるそうで、日本ポルトガル協会という交流組織もある。暗い、シャイという点で日本人とも相性が合うそうだ。「マヌエル」のお客は、ポルトガル語学科の学生、日本企業の駐在員、旅行経験者だ。
ポルトガル料理だけでなく、コストパフォーマンスが高いとされるポルトガルワイン専門店としても有名になった。ポート、マデラ以外にも美味しいワインがポルトガルには沢山ある。
また、「ファド」という、ポルトガルギターの伴奏でレストランで歌われる歌がある。愛愁があり、日本演歌に近い。日本人では数少ない歌い手「ファディスタ」を呼んで毎月ライブを開催。「ファドが聞けないと、ポルトガル・レストランにはならない」とポルトガル通には人気のイベントとなっている。
ヒナ鶏のジューシー炭火焼き フライドポテト添え(1,890円)
海の幸のカタプラーナ(2名用)(3,150円)
・「ヘッジファンド」と「ファイン・ダイニング」は似ている
債券の売買では、トレーダー、商品開発者、営業と役割が明確に分かれている。作った商品にその場で値が付けられ、その場でお客に売る、という作業がシェフとフロアマネージャーの関係のようだと言う。
「ヘッジファンドにも二癖ある人が多く、本質はファイン・ダイニングに似ている。共に大事なのは、チームワークとプロフェッショナリズム。対極にあるのが銀行で、こちらはファーストフードに似ている」そうだ。
「自分にしかできないビジネスモデルを創りたい、金融に似た考えを持ちこみたい。ピラミッド組織=銀行、フラットな組織=ヘッジファンド。この考えで、巷にない組織ができました」
独立したい優秀な人を見つけ運営会社の社長にする。お互いに権限を分けてパートナーシップで経営する。君臨するのではなく役割分担。運営会社の社長にするのは、経営責任と自分の会社という意識を持たせるのが目的。
ポート・ジャパン・パートナーズは資金と、PL・会計などバックオフィス業務を担当。運営会社は情報開示に励み、毎月PLを出し、毎月ミーティングを開き進捗を確認し合う。両者は夫と妻の関係。どっちが偉い偉くないではなく、共存共栄の立場だ。その意味を込めて、社名に「パートナー」という言葉が入っている。それにより、外に出て自分の会社を作ろうと考える人も現れず、優秀な人材を囲えると考える。
但し、運営会社の社長を選ぶ際のプロセスも大事にしている。「将来の伴侶を見つける過程では、皆さん、まずはデートをしますよね。同じく、ビジネスでもお互いを確認する期間が大切だと思います。長期のビジネスを展開する訳ですから、確認のプロセスがとても大切です」と高橋氏は語る。
ポルトガル料理の例からも、食文化はまだまだ国際化されておらず、日本に入ってこないもの、世界に知られていないものの中に素晴らしいものが沢山ある。
日本の外食の国際化が遅れた原因について、「金融が国際化したのは数多くの金融職人が国境を越えて仕事をしてきたから。食の職人はほんの少しの人しか国境を越えて仕事をしてこなかった。国境を越えるお手伝いがしたい」とし、パートナーシップという新しい組織をプラスして大きく羽ばたこうとしている。
マロニエゲートに出店したシンガポール料理「ラッフルズテラス」はシンガポールもどきには飽きた、本物をやろうと始まった。
シュラスコは、日本でのシュラスコの第一人者と出会い立ち上げた。中国上海と米国セントルイスでも展開。米国南部と東部ではシュラスコが流行っていたが、中西部は元々肉をよく食べるにも関わらず無かった。そこで、大学に通っていた土地感のあるセントルイスで開店する。
「日本で熟成したものを海外へ持っていきたい。和食でなくても良い。発明した国はどこでも良い。日本でレベルアップし、それを海外に持っていく。日本人はもともと物作りが得意です」と、シュラスコは南米料理だがそれを日本で成熟させたものを再度、海外に送り出すこともPJグループの役割だ。
PJグループの特徴は3つ。
1)飲食の「総合商社」
日本には無いものを輸入し、日本の素晴らしい食文化や熟成した和食以外の業態も輸出する。
2)飲食の「吉本興業」
日本にいる人材を発掘するだけでなく、海外の食のスターを日本でスターにする。また、日本の食のスターを海外でデビューさせる。
3)飲食の「ベンチャー・キャピタル」
食文化の国際化を通して、国内外で外食企業をインキューべ—ションし育てる。
今まで輸入が中心だったが、2006年から輸出を始め、2008年4月にシンガポールに「Takumi
Tokyo」を出店する。さらに、インドネシアからも出店依頼が来ているそうだ。「今後も是非、日本の有望な外食企業の海外進出を手伝いたい」と言う。
また、国内では輸入した業態を日本で増やす。ポルトガル料理は今、東京ではPJグループの4店を加えても10店に満たない。しかし、スペイン料理は東京だけでも100店以上あり、出店余地はまだまだある。
2007年は海外2店、国内6店と大量出店した。3年前にはたった3店だった。「自分は45才なのでスピード感を持って展開したい。規模拡大、信用を考えて、株式公開したい。取締役4人の内、3人は社外です。コンプライアンスもきっちり実行しています」と高橋氏。
外食業界は今まで純血主義に偏ったところがあったが、金融を始め様々な業界からの参入により、新たな血が注がれ、刺激を受けて、混ざり合い、更なる成長へと向う予感させてくれた高橋氏だった。