・司法書士か、飲食業か
名古屋の大学に通っていた鈴木氏は、名古屋の新栄にある稲本氏がバーテンダーを務めていたバーの常連客だった。そこで、稲本氏からオーナーを紹介され、アルバイトでバーテンダーを始める。学生にとって賄いが食べられる飲食業はありがたい仕事だ。
「飲食業が水商売と呼ばれた時代。水商売にはまる人がいっぱいいました。そして、大学を辞める人が多かったので、自分はそうなっちゃだめだと決めていました。4年間でちゃんと卒業したい。そうしないと、せっかく学生時代にバーテンダーをー生懸命やったことも無になる」と鈴木氏は考えていた。当時、目指していたのは司法書士。
その後、稲本氏がプロデュースしたビアガーデンが話題となり、暫くしてゼットンを設立。稲本氏は、名古屋の飲食業界で有名になっていく。その頃、大学生だった鈴木氏はビラまきやアルバイトを集める仕事を手伝っていた。
大学卒業後も司法書士を目指し、昼は司法書士事務所で働きながら夜はバーテンダーという二重生活を1年間続ける。しかし、夜出歩くことを覚えた鈴木氏は腰を据えて勉強ができない。
「司法書士は伸典.じゃなくても、適任は他に沢山いるよ。伸典.は、伸典.に合う仕事をした方がいい。そろそろ一緒に仕事しようぜ。」と稲本氏に誘われ、悩みながらも入社を決めた。
・「ゼットンってカッコイイじゃん!」
「自分は、本当に飲食という特殊な世界でやっていけるのだろうか?自分が飲食業に合っていると思わなかった。不安定だし、もっとも生業としたくない仕事。今まで人の縁で流されるままに、就職活動もせず飲食で働いてきた。友人達はちゃんとした会社に就職している。僕は周りの友達とどこで差がついてしまったんだろう?」
「現場は楽しい。店の中で一日が過ぎていく生活。楽しいけどこのままでいいのかな?」と悩んでいた。
そんな気持ちの中、27才で「オデオン」の店長に抜擢された。1フロアー30坪、1〜4階まであるレストランバーだ。しかし、「ずっともやもや。売上がものすごく落ち、ダメ店長の典型でした」と悩みを引きずっていた。
吹っ切れたのは、当時、「グローバルダイニング」や「ちゃんと」が企業として伸びていくのを見たから。「自分は本気じゃない。周りがしらけている。このままじゃいけない」、飲食業もちゃんとした企業になれることを知り吹っ切れた。飲食業への劣等感が払拭された。
「そんな時、新婚旅行でジャマイカに行った帰りにニューヨークに行きました。カッコイイ店が沢山ありました。こんな店をやってみたい。僕はそれがやれる環境にいるのに、何を悩んでいたんだろうと吹っ切れました。帰国後、たまたま東京出張の機会がありました。行きたい店を沢山廻りました。当時、メガヒットを飛ばしていた『ケンズちゃんとダイニング』、『ノブ東京』、『恵比寿ZEST』など、そこには僕が物凄く興奮するシーンがありました。しかしゼットンなら、ゼットンの世界感で素敵なシーンを創れると思いました。」
「ゼットンは身近過ぎて、なかなか第三者的な目で見ることができませんでした。でも外から見ると、何だ!ものすごくカッコイイじゃん。僕はそこの店長なんだ。ここをカッコ良くするのも悪くするのもスタッフ次第なんだから、僕らがカッコよくなれば店もカッコよくなると気付かされました。」
時代はちょうど、大箱のおしゃれなダイニングが流行り始めていた。鈴木氏が本気になるタイミングとぴったり重なり、開店して1年〜1年半後に「オデオン」は月商2千万円を売り上げるように蘇った。
「パーティーの仕組みを作ったんです。日々のお客様とビックパーティーの両方をこなす。こんなシーンが生まれて、これだけ売上が乗ってと計算しました。インカムも導入しました。店がちょうど忙しくなり、チームがまとまり物凄い現場のグルーブ感の中、僕はトリップしていきました。店の運営って、こんなに楽しいものなんだと初めて知りました。」
鈴木氏はオペレーターの道を選んだ。稲本氏が店を作って、その店を運営していくのが役割だと悟った。「裏道で家賃が安い物件に稲本が作った店。それをPRするため、クリエイティブをどう表現するのか、メディアにどう取材してもらうか作戦を立てました。初めて来たお客様がもう一度戻ってきた時に、新たに別のお客様を連れてきてくれる。そんな自分が描いた流行る店の好循環に入ると、もう興奮は冷めやまない。」
思い出の「オデオン」 1997年2月オープン
「オデオン」店内
「オデオン」店内
・東京って何て楽しいんだろう!
「稲本が作るものを僕が売っていくんだという決意が出来上がった後の初めての立ち上げが『ギンザゼットン』。稲本といっしょに物件を見に行った。お前どう思うと聞かれても分からない。でも、住所は銀座、地上5階地下1階の物件。話題になっていた『恵比寿ゼットン』のニュースもからめながら、この場所で僕の創ったオペレーションが決まれば、ゼットンは東京に更に新しい影響を与えるだろうなと思いました。社長やりたいです!と即答しました。」
「ギンザゼットン」は2001年夏に物件が持ち上がり、4ヶ月間プランを練って11月にオープンさせた。これを契機に、鈴木氏は東京に移り住む。
「街にときめいて、お客様にときめいて、お客様の飲み方にときめいて、興奮の毎日でした。何て東京って楽しいところなんだろう!と思いました。自分の中にミーハーとコンサバが混在していて、僕が東京で通用するなんて無理だと思っていました。でも、やらざるをえなくて来たら、東京が自分の脳みそを破壊してくれたんです。」と名古屋に残した家族も顧みず、東京に入り浸っていたという。
「ギンザゼットン」が軌道に乗った時、稲本氏に呼ばれた。「今後、伸典.はどうしたい?と聞かれ、東京の統括の責任者をやらせて下さいとお願いし、二つ返事でOKされた。こんな幸せことはないぞと、またスイッチが入った」
「ギンザゼットン」2F席 2001年11月オープン
「ギンザゼットン」3F席
・BOSSのDNAを伝え続ける
鈴木氏に稲本氏について聞いた。「ゼットンは類まれな人に優しい会社です。BOSS(稲本氏)に目ん玉が飛び出るくらい怒られる時もあれば、必要な時には必死にその意図を伝えようとしてくれる。甘やかしたらいけない時は徹底的に突き放す。一度任せると、とことん任せる。こいつがよれちゃうと思う時には、手を差し伸べてくれることも。」
「会社が大きくなってスタッフが増え、全員がBOSSの考えを理解している訳ではありません。しかし、BOSSに育てられたこと、教えてもらったことは、どこまで行っても我々のベースであり、BOSSの考えを伝え続けていくことが必要だと僕は思います。」
ゼットンには、スタッフに稲本イズムを浸透させるための仕掛けがある。1つは「BOSSミーティング」。稲本氏が今感じてること、大事だと思ったことを40分ほど一方的に話す、不定期の研修。
もう1つが「エナジーミーティング」。飲み会でアルバイトまで参加できる。頑張った人を表彰する場でもある。そして。稲本氏と話したい者のために「BOSSシート」が用意されている。毎回行列ができるそうだ。
ゼットンには、新たなスタッフが次々増えている。今年は新卒も22名採用した。「スタッフのやりたい事を把握して、そのステージを与えてあげられるか。色んな方向からアプローチをかけ、こんな見方をすれば夢に近づくスピードが速くなるから」とアドバイスし、スタッフの夢を上司、部下と共有するように努めている。
「大学時代、司法書士を取得した後、それを利用してとにかく経営者になりたかった。稲本から上場を相談された時、上場企業の役員というポジションは、想像できませんが、望むところです。と答えた。実際に上場できた時には喜びより、こんなにも大変なんだと思いました。」
「先日、株主総会が終わった後、新たに役員となった内山総料理長と帰りに話をしました。稲本にたくさん質問が飛んでいたが、厳しい質問が出ても稲本は丁寧に質問に一つ一つ答えていました。上場後の会社の経営は色々な側面で非上場よりも大変だけど、上場したくても出来ない会社が多い中、そんな環境で仕事をやらせてもらえることは幸せなこと。僕は更に本気でやろうと思いました。」
「飲食業の世界では、僕みたいな生き方もあります。独立することが全てではない。僕は辞めない。そんな生き方を世の中に示していきたい。」と最後に宣言した鈴木氏。稲本氏を創業者と位置付け、そのDNAを守りながらゼットンをより大きな企業に転換させることを夢見ている。
「キャバレー」 2002年1月オープン