・昭和2年、銀座初のとんかつ店が誕生
初代、澁谷信勝氏は、昭和2年(1927年)に銀座で初めてのとんかつ専門店「銀座 梅林」を開いた。その父親は富山県出身で製薬会社を経営しており、信勝氏も薬剤師として家業を手伝っていた。しかし、祖母が日本橋木挽町で小料理屋を経営しているのを見て飲食に興味を持ち、20代前半でとんかつ店を銀座で始めた。
とんかつ専門店の発祥は、大正時代にあった浅草「ぼんち軒」。現存しない。上野警察に開店の届け出を出した際、「箸で食べるので和食かな、いや、衣をつけて揚げるので洋食かな。作り方が洋食なんで、とんかつは洋食にしましょう」と警察に決められ、とんかつは洋食のジャンルになったという逸話がある。
明治時代から、とんかつ自体はあった。それを「とんかつ」と名付けたのが、ぽんち軒。それまでは、フライパンでパン粉をつけて焼く「コートレット(カツレット)」というフランス料理の調理法が知られていた。牛肉や羊肉のコートレットが当時、一般的だったが、安い豚肉を使うことが明治時代中期に始まった。ぼんち軒は、「豚肉」の「トン」と、「カツレット」の「カツ」をくっつけて「トンカツ」と命名した。牛肉に負けじと肉を厚くして、ここに肉厚のとんかつの誕生となった。
その後、上野には、「二葉」「ぽん多」「蓬莱屋」という店ができ、現在までとんかつ御三家と言われている。それを見て、銀座で初のとんかつ店を開こうと考えたのが、初代、信勝氏。
「銀座 梅林」ファサード
・ひと口カツ、中濃ソースを考えたアイデアマン
「銀座 梅林」は大繁盛。当時の新入社員の月給18円のところ、とんかつを1円位で売った。今の価値で言うと、1万円は超えるだろう。それでも、大当たり。開店の前から行列が出来、開店の1時間前から揚げっぱなしだったという。冷めてもいいから、立ち食いでもいいから食べたいと言うお客でごったがえした。30日間の営業の内、1日で人件費が出て、1日で材料費が賄えた。28日分の売り上げが、丸々儲けになったという。
最初の店舗は、銀座のはずれの民家。1Fカウンター、2Fテーブルの約30席。べらぼうに儲かって、2年後の昭和4年に今の銀座7丁目の場所に移った。早くから、運転手付きのベンツを乗り回し、銀座の有名人だった。
信勝氏は、薬剤師という化学知識を生かして、独自のとんかつを創作した。例えば、パン粉は当時、食パンが一般的だったが、「食パンでは糖分が強く、肉の味を殺す。しかも焦げててしまう」と独自の糖分を抑えたパン粉を生み出した。また、ソースは当時、ウスターソースやケチャップを使っていた。とんかつに合う中濃ソースを初めて考えたのも信勝氏。今もとんかつにケチャップを乗せる店があるが、それは昔の名残だ。
ヒレカツ定食 2600円
カツ丼のタレも当時、鰹節の出汁を使っていたが、とんかつには合わないと考え、豚から出汁をとった。銀座では「丼」ではなく「お重」だったということで「カツ重」の元祖でもある。また、カツサンドをも考案した。そして、パン粉に自信があり、ひと口カツも考えた。
さらには、とんかつ店を束ねて全日本とんかつ連盟を発足。そして、皆で豚舎を買って豚を育てたという。
戦後、店は奇跡的に焼け残ったが、米が手に入らず、入手できたスパゲティやラーメンの上にカツ丼の具を乗せ、「カツ玉スパゲティー」「カツ玉そば」を生み出した。それがまた美味しくて人気で、三代目の昌也氏が小学生の時までメニューにあったという。昌也氏は「カツ玉スパゲティー」を現代に復活させようと企んでいる。
「カツ玉スパゲティー」
・初代は攻め、二代目は守り、三代目は攻め
二代目は、初代と異なり、学者タイプでまじめにコツコツと働いた。終戦後、海軍から帰還。学校で勉強を続けたかったが、長男のため大学に通いながら家を継いだ。
初代は出店意欲が旺盛で思いつくと店を出す。その好き勝手を二代目は裏で支え続けていた。銀座で3店、新宿、池袋などで出店していたが、不採算店を閉鎖し、借りていた銀座の店の土地を買い取り、本店1店だけを残した。
三代目、昌也氏は3人兄弟の二男。兄、弟ともに継ごうとせず、手を挙げた二男が継いだ。大学時代から継ぐことが決まっていたが、二代目である父親からサラリーマンを経験するように言われ、8年間、日産プリンスで宣伝や販促の仕事を担当した。
30才で実家に帰っても、店の仕事はアルバイト程度しか経験がなく、職人たちがついて来てくれない。そこで、2年間、調理場に入り同じ釜の飯を食べ、打ち解けた。
そして、飲食店の経営が厳しくなっていった。長くいる職人は給料も高くなる。飲食が儲からなくなっていくのを感じ、出店を決意したという。
「初代が遊び上手、次は反面教師となり締まり屋になります。そして、私の代では出店攻勢に転じました。攻めと守りを代々繰り返すようです」と澁谷氏。
・2007年、ハワイ出店
まず最初の出店は、2005年。羽田空港第一ターミナル地下一階のフードコート「東京シェフズキッチン」。空港ビルディング子会社にフランチャイジーとして運営委託している。
「自己資本で出店できず、借入まではしたくなかった。パートナーに運営していただいて、うちはノウハウを提供するフランチャイズのような仕組みにさせてもらいました」と澁谷氏。同店は月に800〜1000万円売れる繁盛店。最初に職人を店に派遣したり、銀座店で預かったりして研修。経験者なら1ヶ月で「銀座 梅林」のやり方を学べるという。
同じころ、ハワイのアラモアナ・ショッピングセンターでシロキヤという百貨店の日本の食を紹介するイベントに出店。
「人の紹介でカツ丼フェアを2週間やらせてもらいました。日本と同じ味の、『カツ丼』を13ドルで値付けました。そんな値段じゃ売れないと言われましたが、でも馬鹿当たりです。ロースカツは8ドル。材料が足らない。出来上がるとわっと並んで1時間待ちです」と澁谷氏。
「タレの味で苦労しました。米とパン粉、とんかつソースは日本から持ち込みました。醤油や砂糖を現地調達し、カツ丼のタレはハワイで作ろうとしましたが、醤油も砂糖も違うんです」
そして、ハワイで本格的なとんかつ店を出店しようとしていた、ポートジャパン高橋世輝氏と出会う。羽田店と同じ仕組みで、澁谷氏は看板料とノウハウ料を受け取っている。
ハワイ店 外観
ハワイ店 店内
「カツ丼とロースカツが催事で売れたので、ハワイでも店を出して大丈夫だと思いました。価格は、ヒレカツ定食23ドルです。ご飯、千切りキャベツ、味噌汁を付ける日本と同じ定食。そして、黒豚とんかつを36ドルで限定10食販売していますが、いつも売り切れ。とんかつはハワイにもありますが、日本料理店の1つのメニューに過ぎず、あまり美味しくないと言われていました。それで、本格的とんかつ専門店がウケたのです。現地の新聞から、味もサービスも良いと高い評価も受けました」
ハワイ店 メニュー
「メニューの7割は本店のままを守ってもらい、残りの3割はアイデアメニューを認めています。銀座では出してない豚汁を、毎週土曜日を豚汁の日として味噌汁の替わりに出したら凄い人気です。ハワイは暑いし、脂の乗った熱い豚汁は受け入れられないと思っていましたが、違いました。次は、カツカレーを出そうと考えています。米国は肉製品が輸入できず、日本から美味しいカレーを持ってこられません。美味しいカツカレーを提供できれば売れると思います」
ちなみに、ハワイ店で使っているのはカナダ産豚肉。羽田店もコストを落とすためカナダ産。カナダ産は昔と異なり、安くて美味い。羽田店で使って味に自信があったので、日本産を輸入できないハワイでもカナダ産でいけると考えていたそうだ。
品質に関しては、羽田店は毎月、ハワイ店は年4〜5回訪問チェックしている。「悪い点はほとんどありません。一回教えるとその味が守られています」とパートナーとの関係は非常に良好だ。
・銀座にわざわざ来る意味のあるものを提供しよう
「銀座でも外食は新規参入で価格競争にさらされています。特徴ある料理がないところは苦労しています。うちは、先日のテレビでカツ丼ナンバーワンに選ばれるなどして売上は伸び続けています。1990年代のバブル崩壊後は厳しかったですが、2003年以来、ずっと良いです」
「銀座の店で郊外の商業施設に出店するところが増えてきました。でも、銀座の店が自分の家の近くにできたらお客様は銀座まで来なくなります。銀座本店でしかないサービスやメニューが絶対必要です。新作を先駆けて銀座に出して、タイムラグを設けて支店に出すとか。わざわざ食べに来る価値があれば来てくれます。どんどん出店して同じものを扱う店が増え、商業施設も銀座ブランドを欲しがっています。出店してもいいですが、工夫は必要です」と澁谷氏は銀座商店街の組合でも発言している。
・「昔と変わらず美味しい」は褒めことば
「食べ物は人によって感じ方が違います。10人が10人美味しいとはありえない。豊かな時代で、全ての方が外食でも家庭でも美味しいものを食べています。昭和の味をかたくなに守っていると味は落ちてきます。陰で、米も肉も味噌汁も漬物も味のグレードを上げています。お客様が『昔と変わらず美味しい』と言ってくれることは褒めことばです。陰での努力が必要です。提供する側も変わっていって、レベルをそれで保っていく」
「外食が溢れています。銀座に昔は飲食店がこんなになかった。お客様は贔屓にする店を決めていました。今はその何十倍も店があります。その中で生き残らねばなりません。価格競争も凄い。銀座だからと言って、高くても売れる時代じゃない。その中で自分らしさを出していくことが重要です」
食材のグレードを上げたり、美味しさのために改良を続けているにもかかわらず、変えましたとはお客様には絶対に言わないのが銀座のやり方。
「ロースは鹿児島産黒豚の最高のものを使っていますが、そんな事はメニューに絶対に書きません。手に入らないときもあるかもしれません。書いたら手に入らなくても扱わなければいけません。また、白豚でも美味しいのがあるし、ちゃんと味をみて、この値段ならお客様にだせるんじゃないかなという肉を使っています。今は国産の生にこだわっていますが、外国産も悪くないと思います。国産でも硬かったりもしますから。直ぐではありませんが、将来的には外国産も考える時期もくるのかな」と、銘柄や産地にとらわれず、美味しいものを判断できる力が老舗にはある。
ロースカツ定食 2700円
「最近の店は自信がないから素材のブランドに頼っています。店の個性を持つのは難しいので素材ブランドにもっていかざるを得ません。しかし、ブランドにこだわらなくても美味しいものはいっぱいあります」
肉卸は現在3店使っているが、今でも探すのに苦労している。初めは素晴らしい肉を持ってくるが、数か月経つと質を落とした肉にそっと切り替えて持ってくる卸もあるそうだ。揚げ油も綿の実から抽出した綿実油を50年以上使っている。さっぱりしており、店に入っても、とんかつ店にありがちな脂の匂いが少ない。
・2009年、銀座の味をシンガポールへ
現在、澁谷氏はポートジャパン高橋氏とともに、シンガポールの商業施設に、銀座の名店を集めたフードコートを作ろうとしている。
世界の資金が集まり、大型カジノ建設など開発ラッシュと好景気が続くシンガポール。日本料理も浸透し始めたが、残念ながら日本人以外が経営したり調理したりする、少し変わったに日本料理が多いのが現状。この中で、日本の東京の、しかも頂点、銀座の名店の味をフードコートというリーズナブルな価格で提供する業態を狙っている。
そして、アジア各国が注目するシンガポール市場で成功を収め、アジア各国への出店に発展することを期待している。
銀座の老舗の方々に、銀座や日本に閉じこもらず、世界に目を広げてもらいたい、銀座の味覚が世界に通用するブランドに育って欲しいというのが、澁谷氏の夢だ。