・NYと各国で10年、日本人女性シェフが作る「ハイブリッド・トラットリア」
1/9(金)にオープンさせる「ハイブリッド・トラットリア クヨール」。場所は渋谷・桜丘町、インフォスタワーの裏手の1階。24坪で30席のゆったりとしたレストラン。
「もともとこのエリアを探していた。はずれた場所。レストランを作りたかった。周囲にちゃんとした店がなくて、ランチが見込める。ランチのために最初はイタリアンを考えた」と東井氏。
「クヨール」 外観パース
そして出会ったのが、船越雅代シェフ。船越シェフは、彫刻を学ぶために単身、米ニューヨークに渡る。その後、自分に合ったベストの表現手段として料理を選択。調理学校に通い、NYの名店「Gramacy
Tavern」「WD50」、パリの「Astrance」などで働いた。その間、パリやジャカルタのレストラン、オーストラリア人富豪の所有する船でお抱えシェフとしても働く。世界中を回った経験を基に、ボーダーレスな料理を得意としている。
船越シェフが日本に一時帰国した際、日本の飲食店で働いた経験のないため、スクーリングパッドで学んだ。そこで講師を務めていた東井氏に出会う。
「彼女が山梨の人気ワイン『ボーペサージュ』を扱っていると聞きつけて、うちの店に飲みに来てくれた。将来何をやりたい、とか話した。イタリアンの開店の話もした。彼女は、興味はあるけどイタリアンをやってきたわけじゃないし、自分の料理、NYやパリや世界各地で進化してきたフレンチだと。」
東井氏(右)と船越シェフ(左)。「buchi」カウンター前で。
「僕は、料理にはジャンルはないと思っています。新店はイタリアンでも何でもいいかもしれないと方向修正したら、彼女がやってみたいと言い出した。」
そして生まれた新料理ジャンルを東井氏は「ハイブリッド・トラットリア」と名付けた。「トラットリア」はイタリアン、ハイブリッドは英語。パスタはあるが、フレンチを中心にイタリアンと融合したような料理です。」
食材は、「日本のワインを勉強し始めて、畑も回るようになった。これから日本の食材が面白い。できるだけ日本の食材を使おう、安全なものを出していこうと思った。オーガニックを謳うんじゃなくて、作っている方の考えが分かる食材を使っていきたい」と言う。
「彼女がニューヨークに戻ろうと思った時、日本に残ってもいいかなと思った理由は、食材。日本は食材が世界で一番美味しい。日本人はモノにこだわる。生産者は年を取ったり後継ぎがいなくて減っている。他方、今、新しく参入している人たちは作り方を工夫している。工夫した食材が日本に溢れている。また、海外でしか手に入らなかったもの、例えばハトや洋野菜も日本で作り始めた。」
厨房の船越シェフ
船越シェフも、「今からは日本が面白いんでは。帰ってきて日本料理店で働いた経験からも日本の食材レベルが高く、お客の料理に対する意識が非常に高いと思いました。その中でも、東井さんたちと一緒にやりたい」と働くことを決めた。
「食べに来てもらうためには、日常と一線を画した料理を提供して、良い意味で驚いてもらいたい」と言う。試作メニューを見たが、「葡萄の枝に巻きついた真蛸の炭焼きwith赤ワインのツメ」「プリンの食感を目指したフォワグラwith温かい鰹だし」「5分間燻製した仔鴨のローストwithエスプレッソのソース」「長野産鹿肉のラグーwith鹿せんべい」など、どんな見た目や味なのかワクワクさせる料理が並んでいる。さらに、ホールは2人のイタリア人。
「ハイブリット・トラットリアって何だろうな、イタリア人がサービスしてくれて、料理が出ると、何、この料理みたいなことをやってみたい」と東井氏は目を輝かせた。
この内容で、パスタ中心のランチ1000円、ディナーは7000円の客単価を想定している。不況の中でも、手の届く憧れのレストランに仕上がりそうだ。
店名の「クヨール」。実は、広島弁の「食いよる」をフランス語風にしたもの。「ブチ」も広島弁からきている。
「葡萄の枝に巻きついた真蛸の炭焼きwith赤ワインのツメ」1800円(予定)
「ゆっくり火を通した手長海老withピスタチオとバニラのペースト」2500円(予定)
「低温調理したアン肝with塩漬けレモンのヴィネグレット」1500円(予定)
・広島から上京。「炉端キュイジーヌJYU」を8店、20億円に
「クヨール」で東美は直営で5店。プロデュース業務は、これまで約20件。今年は直営にかかりきりだ。
「プロデュース店のアフターケアができない。繋がって行って指導することができない。やりっぱなしになってしまう。そうすると、オーナーのカラーで店が変わっていってしまう。売上が下がると看板が悪いんじゃないか、看板をいじってしまう。スタンディングの店で椅子をいれてしまう。そんなことやっちゃダメですよ。こうした方が売上が立ちますよとアドバイスしてあげたい。プロデュース店ができればできるほど、アドバイスできなくなる」と、東井氏。
「今後はプロデュースもやると思います。全店違う事をやってきたのは、人の手伝いができたらいいな、飲食店が活性化したらいいな、と思うから。企業が作る店ではなく、個人オーナーでもちゃんとしたいい店が作れるというのを実証していきたい。」
東井氏は広島で生まれ、デザイナーを目指して、上京し専門学校に通う。アルバイトで始めた飲食にのめり込む。
「上京して2年後に、後輩と店を始めた。千歳烏山で15坪の焼鳥屋。後輩が信用金庫から500万円、知人からと合わせて600万円を借りて、全部手作業で作る。焼鳥を焼いたことがない。当時住んでいた風呂付の小さなアパートで、合羽橋で小さなコンロを買ってきて、炭をいれて練習しました。部屋の中が煙で真っ白になって大変だった。1週間くらい毎日、研究しました。」
「レタスクラブとか見ながらメニューを考えました(笑)。1日中、メニューを考えた。3ヶ月やってみてこのままじゃだめ。1日10万円が目標だったが、6万円しか売れない。納得いかなくて、後輩に店を残して、修行に出たんです。お客さんには『鳥を捕りに山へ行ってきます』と、紙に書いて店内に張りました(笑)。」
入ったのが無国籍料理「949」のFCを展開していた企業。原宿店で働く。
「都内で一番美味しくしようとしました。チェーンはどこも同じ。無視して、本部メニューを1/3くらいにして勝手にやらせてもらった。本部の平林社長も了解済み。すると、都内で坪単価一番売るようになって、自信が出てきた。」
そして、FC企業の本部に上がって開発担当となり、8店舗で20億円を売り上げる「炉端キュイジーヌJYU」を開発した。
「当時、茅ヶ崎で繁盛していた『えぼし』という店があった。漁師料理の店。茅ヶ崎の網元から船ごと買ったものを出すみたいな店。いい店なのでこれを東京でやろうと思った。でも、社長が今から炉端の時代だと言う。田舎家が流行っていた時代。僕は、若い子は炉端は食べないと思った。中間を取り、魚っぽいものも炉端に加えて出来上がったのが『炉端キュイジーヌJYU』です。」
最初から100坪を超える大型店。それが大ヒットし、100〜200坪規模で一気に8店にまで拡大した。
・「JYU」倒産。女将と「buchi」開店
FC企業のナンバー2として、「JYU」拡大に貢献したが、しかし。
「だんだん、面白くなくなってきた。当時は役員でナンバー2。投資に対してリターンを考えなきゃいけない。大型店の方が当たればリターンが大きい。大きい分、常に合理化を考えなきゃいけない。」
「3億、5億と売上が大きくなると、社長から『1%違うとどれだけ利益が違うか分かる?』と言われてしまう。最後は、原価30%が目標になった。30%にできるチーフなら報奨金を出しましょうとか、になった。原価率を抑えるために月末になると日本酒、ワインの在庫を減らしましょう、となる。敢えて品切れにする。例えば、魚にしても月末には在庫を減らすために種類が少なくなる。15種が8種になったり。自分の中で何となく納得できなかった。いつも会議で言ってたのは、月頭のお客様と、月末のお客様で不公平じゃない、店の勝手じゃないと。」
「buchi」の人気女将は、東井氏の奥さんだが、かつてホテルで働いていた時に出会い、「949」、「JYU」と一緒に働いてきた。彼はいつも「女将」と呼ぶ。
「2人でつまらなくなってきました。女将もサービスの中で、レジでお客様に『あれ、今日いらしてたんですか?』と言うことが増えた。200席くらいあると目が行きと届かない。目指す所と違ってきたかな、と思いました。」
そして、「JYU」を展開していた企業は倒産。
「出店により、投下資本がすごくかかる。返済額が多くなり、すごく売上がないと厳しくなる。展開は無理かな、と思った。社長に聞くと、『展開はやめて内部を良くしていこう。銀行にも信用ができる』。結局は、利益効率を高くすること。そこには興味を持てなかった」と、辞めて自分で店を作りることを決意する。
「会社はつぶれました。飲食店は一度落ち始めると、大きな力がないと浮上させることはできない。『JYU』は、自分がずっとやってきてノウハウがある。それ以上のノウハウがある人はいるのかなと思っていた。買う人がでてきたが、難しいだろうなと思っていたら案の定そうなった。」
辞めるまで5年かかったが、女将と2人で「buchi」を2004年8月にオープンさせる。
「『JYU』では、最後までPOSレジを使わなかった。声を出すことを大切にして、手間なところを売りにしていきたい。例えば、手書きだと、氷を少なめにして、焼酎をちょっと多め、というような細かなことを覚えてあげて作ることができる。でも、POSにはそれが出来ない。マニュアル化出来ないところを仕事にしていきたい、とずっと思っていた。大手がやることの逆ばかりやってきた。そして、大型店ばかりつくったことにギャップを感じた。もう一度小さいところから作り直そう。立ち飲みなのにサービスをちゃんとする、立ち飲みなのに料理が美味しい、で作ったのが『buchi』です。」
「例えば、緑寿司を見に行って、繁盛の要因は原価がかかっていること。帆立350円、仕入れは絶対150円する。蛤2個で500円、原価40%くらいかけている。店を作る時に、原価40%まで掛けても成り立つようにしようと考えた。今もそうです。坪単価が上がらないとつぶれちゃう。坪単価は高いが、利益は普通の店とそんなに変わらないんです。」
「もっとワインを気楽に飲める店をつくりたい。当時はワインブームでワインバーがあらゆるところに出来ましたが、高すぎる。リーズナブルなワインバーを作りたい。立ってでも飲める、女の子が来られる店。ベタなものが好きです。女将と一緒に、晴海『かねます』とか、八丁堀『マル』とか見に行った。凄いな、自分たちはおしゃれにやりたいなとか、どんどんアイデアが湧いてきた。」
「南平台の物件に出会い、辺鄙なところだけど、女将と2人で絶対ここだとピンときた。外から見たときには何か分からない、でも入ったら凄いなと思わせる。うちが作っている店は皆そう。人に興味をもってもらえる店を作りたい。『buchi』の外にお客さんが溢れたら世の中の人は驚くだろうな。わざと辺鄙な場所を選んだ。通り一辺の客は狙っていません。ここまでわざわざ来てくれるような店を作りたい。」
・「buchi」、黒字になるのに半年
今でも繁盛する「buchi」だが、最初から上手くいった訳ではない。
「女将がいたことが大きい。毎日お客と接して、絶対に手ごたえがあると言っていました。でも、資金繰りが大変。毎月100万円の赤字。2フロアで日商20万円が目標だったが、実際には8万円。それが徐々に上がって、気づいたら30万円になっていた。それまで1年かかった。2004年8月にオープンして翌年3月に損益分岐点を超えた。その間、12月も凄く売ったが、それでも赤字。」
「女将が店を始めた時、がん検診でひっかかったんです。今からと言う時に入院したらやばいと思った。12月の検診で、間違いなくがんと診断された。1月に手術。早期発見で大したことはなかったですが、女将は3週間休みんだ。女将は入院する前、お客さんに、『がんだから休まなきゃいけない。私がいなくても、ちゃんと来てよ』と全部のお客さんに言って回りました。それを見た従業員が涙、涙。そこから彼らが頑張ったんです。2月に女将がいなくて、従業員がすごくがんばって、3月から浮上しました。」
女将の入院が、スタッフの心に火を付けた。ターニングポイントだった。
・合理的じゃないことをウリにする
東美は、合理的じゃないこことをウリにして、繁盛店を作り続けている。
「料理はいかに手間をかけるか。ちょっとしか違わないことでどうやって違わせてくるか が料理。もの作りがしたいんです。デザイナーを目指していた当時の友人がデザイナーや作家になっていくのに憧れた。そして、会社をモノ作りにしよう、お店をモノ作りしよう。モノ作りは人と同じじゃないことをいかにアピールしていくか。そういうことが楽しい。料理も似ている。」
売上が厳しい時、販促、ビラ配りを考える店は多いが、東美はそれをやらず、料理の内容を良くしようと考える。お客にもっと感動を与えようと考える。
「暇な時こそお客にサービスする。『これ食べてみて』、と料理をサービス。それで感動させる。すると、お客さんから、『ワインは5千円くらいで、何でもいいから見立てて』となる。そんなお客さんはトータルで8千円も使ってくれる。立ち飲みでですよ! 立ち飲みでここまでやるの、というのをやってみたかった。」
「よくメニューが盗まれるんです。メニューに値段を付けておきたいくらい(笑)。いいんです。同業者がメニューをもっていきたいくらいの店を作り続けたい。常に大変だが楽しい。」
東美には、店長会議もない、日々の売上報告もない。原価率についても特に言わない。店長には付けるよう言っているが、実際には付けなくても咎めない。メニューも各店に任せ、不味い場合のみアドバイスする。直営5店舗で、従業員と意思疎通できるちょうどよい規模ということもあるだろう。
不況により、東美と言えども、売上高は下がっているという。それでも、来年1月に「クヨール」をオープンさせる。不況を逆手に取ると、物件が出やすく、好条件で借りられ、しかも、良い人材も集めやすい。その背景にあるのは、モノ作り、料理への自信だ。どんな時代でも愛されるのは、手間を惜しまないことだろう。