・「くいものや楽」から受け継ぐ繁盛DNA
岩澤氏は27才までアパレル会社で営業を担当。元来、独立願望が強く、アパレルでの独立を考えていたが、掛け売りという体質が性にあわず、在庫を持つリスキーさで二の足を踏んでいた時に出会ったのが「くいものや楽」だ。若い居酒屋経営者を300名近く育て、オヤジと慕われる宇野隆史氏の門をくぐった。
1980年代後半、話題だった「くいものや楽」六本木店。カウンターが若い女性客に占拠されるような超人気店。25坪で何と月商1500万円売っていた。岩澤氏は六本木店で働いた後、下北沢店に移り、さらに経堂店と原宿店で店長を経験する。宇野氏の下で5年間働き、独立資金1千万円を貯めた。
32才でJR中央線の西荻窪で独立開業する。「てやん亭”」1号店。商店街から1本中に入った通りの地下。隠れ家がコンセプト。保証金200万円、家賃20万円、22席。
「お客が来なかった。料理が出来ないので自分を売り込むしかない。しゃべるのが好きでお客を喜ばせた。1人でやっていたので、熱が出ても額にアイスノンをまいて店に出た」と岩澤氏は半年間一人で孤軍奮闘した。
「西荻窪は山本益弘さんが住んでいるだけあって、店のレベルが高い。真剣に料理の勉強をした」と言う。週に1度の休みには日本酒の勉強をしたり、博多へ行き焼酎の勉強もした。いも焼酎が気に入って福岡から10種類もってきたが全く売れなかったそうだ。当時は今の焼酎ブームなどない。
しかし、口コミでお客に広がり、22席で月商400万円の繁盛店に育てた。
・メディア取材はお断り
「くいものや楽」で共に働いていた友人に来てもらい、そこから売上がうなぎのぼりとなる。それが、現在のダディーフィンガー社長の志小田亨氏。神楽坂で「MASUMASU」「しゃぶ屋」「肴町五合」の3店を経営している。
http://www.d-finger.com/
「メジャーに行こう。青山だ」と2号店にとりかかる。表参道で1年間探し、家賃坪2.5万円、保証金1千万円。20坪、45席。直感で物件を決め、競合が多かったが、大家に熱く語って勝ち残った。
店名は「勝手口てやん亭”」。「私が生まれた下町の隣同士では玄関ではなくて勝手口から『煮物余ったから食べて〜』とか『ちょっと醤油貸し手くれな〜い』とか。隣近所の付き合いはみんな勝手口から始まったという思いを込めて名付けました」と岩澤氏。
「ごりょんさん」表参道店は直ぐに月800万円を売り上げ、お客は行列をなし、黙ってもお客が来たという。表参道店を流行らせたとたん手の平を返した様に様々なメディアや酒類メーカーさんが殺到する。「やっぱり青山は違う」と思ったそうだ。
「しかし、これでは人は育たない」と気づく。
「くいものや楽」で同期の仲間は、「ハナコ」や「オズマガジン」で取材を受け、どんどん売上が上がっていた。西荻窪では地味でとても取材は来ない。余談ながら、メディアやメーカーからは目もくれなかった西荻窪時代に来てもらった唯一の大物がサッポロビールの荒川社長だそうだ。
「口コミしかなかった。だから、お客に対してハングリーになれた。これが会社の根本的な理念として残っている。メディアの力を借りずにやっていくと、従業員も強くなる」と岩澤氏の原点は、西荻窪だ。
「原点に帰って、人が来ないところで試してみよう」と考えていたところで見つけたのが、西麻布の1軒屋。表参道からも六本木からも歩くと遠い。しかも、民家が連なる細い道路沿い。この1軒屋を見た時、「3秒で決めた」という。「てやん亭”」2号店。初代店長は志小田氏。
当時は景気が良くて、西麻布に隠れ家的な店舗が誕生した時代。「ケンズ・チャントダイニング」や「水色(すいしょく)」など話題の店が西麻布交差点付近にあった。
「テレビ、雑誌の取材が来たが、丁重に断った。40坪、80席を口コミだけで1千万円売ろう」と岩澤氏と志小田氏は決意。
「当時メディアに載らなかったから今もあるのか」と振り返る。確かに西麻布で騒がれた店は次々に消えていった。
「カップルでドキドキしながら街灯の少ない暗い道を10分以上歩いてくる。彼女が不安がる中で、看板のない1軒屋が現れる。しかし、ドアを開けるとスタッフが温かく迎えてくれる。彼女はなぜこんな店知ってるの? となり彼の株が上がる。4千円で夢が買える店」を想定している。確かに、なぜ、知ってるの? と聞かれてテレビで見たでは興ざめしそうだ。2人の関係が親密になれる店として人気になる。
「てやん亭”(てやんでい)」西麻布店 郵便受けが外からの唯一の看板
一軒家の玄関脇にある表札
1Fのオープンキッチンカウンター 「がんさん」の店は全てオープンキッチン
2Fのテーブル席
・一生、飲み屋のオヤジ
「店を作ることより、従業員がどう成長していくかに興味がある」と言う。「独立していけば成長できる。志小田氏が独立第1号。ビジネスクラスでシャンパンを飲みながら、海外に行けるようになろうなと語り合っていたが、それが現実になった」と。
西荻窪店を志小田氏に業務委託して独立資金を貯めてもらったそうだ。現在も次の独立予定者に業務委託している。但し、店名は表参道と同じく「ごりょんさん」に変わった。
「うちを出た若者が巣立って繁盛店を作って欲しい」のが岩澤氏の夢。
「独立して13年。ゼットン稲本君やダイヤモンドダイニング松村君など上場する人は凄いなと思う。でも屋台の焼き芋屋も同じ飲食業。飲食の世界は幅が広く、どっちのタイプも受け入れてくれる。周りが上場するから俺も上場する、ではなく、自分のポジションを考えた方がいい。自分は上場するタイプではない。一生飲み屋のオヤジで生きていきたい。」
「社名のベイシックスは、私の好きな言葉、バック・トゥー・ベイシック(基本に戻れ)から来ている。相手、すなわち、お客に喜ばれてナンボをわすれちゃいけない。」
「店は増やしたいけど、スピードは考えない。どんな立派な家を建てても、基礎がしっかりしてないと崩れる。まず人ありき。」自分のペースで人生を楽しみながら店をゆっくり増やして、そこで若い人が育てばよいと考えている。
2007年6月に六本木に6店舗目、串焼き「ジョウモン」をオープン。ここも、岩澤氏の店作りの基本であるオープンキッチン。しかも17坪。「20〜30坪でお客とスタッフが一体感が最も面白い。大箱は興味無い」と言い、既に月1千万円を売る店に育っている。岩澤氏の繁盛店を作る嗅覚の鋭さにはかなわない。
「ジョウモン」の目立たぬ看板。
カウンター前の冷蔵ケースに並ぶ串
ざぶとん、チーズ5種に加え、すきやきなど創作串が並ぶメニュー