・アパレルで磨いたセンス
金指氏は工業高校デザイン科卒。ロックやアートなどサブカルチャー好きの同級生達に囲まれて、アパレルの世界に目覚める。ソフトトラッド・ファッションのブランドを展開するアパレル会社に就職。全国展開を始めた。
「最初は販売。社長から、お前は服くらいデザインできるやろと言われ、企画ルームができたんです。社長はセンスが良かった。老舗のバーやレストランに遊びに連れて行ってくれたりして、かわいがってもらいました。フランスとイギリスが好きな方で、感性的なことを教えてくれました」
「社長は色んなものをディレクションして、ものを創るプロデューサー。人に指示しながら店を創るのを横で見ていた。こんな感じで店をやったらいいんだと学んだ。あんな新しいブランドしようや、雑貨もしようや、店もトータルでプロデュースせなあかん、と言われました。楽しかった。夜中まで働いて社長に連れて行かれ1時間寝て、朝に会社行って在庫部屋で吐きながら寝たこともあります(笑)。そんな“遊び”から学ぶことも多く、カルチャーを吸収できた」
当時、神戸で金指氏が勤めていた会社と流行を2分していたブランドがある。そこで働いていたのが、バルニバーニの佐藤裕久氏だ。2人は当時から親しい。
・「ランチョンバー トゥーストゥース」誕生
1986年、自分の店を持ち、金指氏は飲食業界に転身を図る。
「バブル時代に東京へ行ったんです。そこはカフェバーブームの走り。神戸には老舗はあったが、それ以外はリザーブをコーラで割って飲むようなパブか、趣味でやってるバーだけ。東京では、坂本龍一などテクノの一派がよく来る店に行った。こりゃなんだ! カッコええなあ。やられた! 店にはおしゃれな芸能人もいて、こんな店創りたいと思いました」
「ちょうどその当時は服がいやになっていた。自分は服の基礎知識があるわけではない。社長のコピーで、面白い、カッコいいを形にしたいと思っていた。でも、新作のファッションは海外の雑誌から引っ張ってきていたんです。そこにジレンマを感じた。元々あったオリジナリティへのあこがれもあって、飲食の方が自由に見えて、デザインや音楽を組み合わせて考えることができて、今のDJみたいで服より世界が広かったんです。神戸に帰って悶々としていました」
「神戸に帰ると、変な裏通りの街ができたんです。会社の事務所からその街がみえていました。1軒変わったポストカード屋ができ、しばらくすると、兄弟が猫のアップリケを自分たちで作って売っている店ができたんです。すると、そこの空気が東京の裏原宿や代官山の裏通りで見た、個人が出してる店と重なって見えてきました。この街でカフェしたらかっこいいなと思っていたら、それらの店に惹かれた変わった人たちが集まりだして、たった2〜3軒の店しかないのに、何となくお客が店に入っていくんです。それをずっと見ていたら、アパレルを辞めちゃいました」
自分で貯めた300万円に公庫から借りた資金を元手に、裏通りの角に12坪の「ランチョンバー トゥーストゥース」を作る。
1号店「ランチョンバー トゥーストゥース」
「『ランチョンバー』ってなんだ?」と思ってもらいたい。名前を付けるとき、僕は真剣だ。物件が決まっても、名前が決まらないと、どうしてもしっくりこない。まず、思いつく名前を列挙する。例えば、インディーズのロックバンドの流行ってる名前って何があるかなとか。当時はコクトーツインズとか、クレスキュールとか。どっちもクッと引っかかる。こんなひっかかりを当時も今も変わらず、大事にしています。2回繰り返すのも当時の流行。TOOTHTOOTHは、若者に分かってもらうことがテーマで、それでいて、書いた時のロゴがきれいでかわいい。それで、「TOOTHTOOTH」という店名が生まれたんです。
金指氏の1号店「ランチョンバー トゥーストゥース」は流行った。アパレル、音楽、絵、写真などアート系の人々のたまり場となった。
「パリのサンジェルマンにこうゆう店があると教えてもらった。アンティークな漆喰の壁でダメージっぽい仕上げ。インテリアは、古道具屋から自分たちで色んなものをかき集めた。オープンエアへもこだわりました。外から見える壁にカンヌ映画祭の大きなポスターを貼りました。好きだったジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とか。それが気になってお客が入ってきてくれるんです。何でこんなポスターかけとんねん、変やぞ、とか言いながらね。」
「朝は11時に開けて翌朝まで営業しました。ランチ、カフェ、アラカルト、酒。夜10時過ぎると個性的で風変わりなお客が集まってくるんです。カフェ文化のハシリだったかな。コース料理を食べてるカップルの横で おじいちゃんがシャンパン飲んで、その横で誰かがコーヒー飲んでてもいい。当時は何も考えず、アイデアが浮かぶたび、当たり前にいろんなことをやった。いろんな人がいろんなところで話題にしてくれて、雑誌なんかにも取り上げられた。12坪で1日15万円売ってました」
そして、2号店のジャズバー「バップバー・ゴア」をTOOTHTOOTHの近くにオープン。神戸ではある意味、伝説的なバーになった。
「バップバー・ゴア」のポスター
「ジャズ、カッコええぞ。妖艶でセクシーなジャズを爆音で流しました。イメージは港の外国人バーで、キャッシュオンデリバリー。内装は、真っ赤なおどろおどろしい空間。スタッフはマッチョで頭はスキンヘッド。めちゃめちゃ流行りました。」
「おもしろい、ワクワクすることが心から好きなんです。身体に染み付いてるんです。ビジネスだけど遊びと紙一重。小学生はドッジボールを考えながらしない。休み時間がめっちゃ楽しいからドッヂボールしよ、になる。これと同じ原理です。ワクワクが無くなったらビジネス辞めようと思っています。だってお金儲けだけで拡大しても苦痛を伴うだけですから。」
・阪神淡路大震災で飲食の本質を知る
1995年1月17日に神戸の街を襲った阪神淡路大震災。これを機に金指氏の飲食への考え方は大きく変わった。
「バーをオープンさせた後に写真ギャラリーも開いていました。でも、震災で全部つぶれてしまいました。『TOOTHTOOTH』1軒だけが残ったんです。でも店からは離れて、食っていくために屋台を始めました。売ったものは、カレーとコーヒー。こんな時に金とるんか!と怒られることもありました。ところが、TOOTHTOOTHの店前が、震災に会った人がリュックを背負って歩く道になって、今度は店前で、カレー、鮭弁当、焼肉弁当、おでん、缶ビールを売るようになったんですが、そんなんやったら店をやろうや、と、色んなところの給水車から水を汲んできて、プロパンも買いに行って、店を開きました。すると、お客さんが入るようになったんです。ポツンと焼け野原にあるから、なんや?と思って入ってくれるんです。そこで、何の変哲もない料理を口にして、おじいちゃん、おばあちゃんが泣いて喜んでくれたんです。」
「それまでは、自分の店は、どうやカッコええやろ!と思ってやってましたけど、そうじゃない、飲食の本質ってこれだ!凄いことなんだ!と思いました」
1997年、仏の地方料理をベースにした「BRASSERIE TOOTHTOOTH」が誕生。また、流行る。
最初の「BRASSERIE TOOTHTOOTH」
「今の総料理長は、BRASSERIE TOOTHTOOTHを一緒に立ち上げてくれた小学校時代の同級生。神戸でフレンチの中堅で、市内で指折りホテルのフレンチレストランのスーシェフまでなった人。震災の時に、偶然出会って、手伝いに来てくれて、そのまま一緒にやろとなった。おかげで、隣が空いた時、店を倍の大きさにできた。その頃、ちょっとずつ街が復興してきていた。真っ先に店をきれいにした。総料理長の経験とセンスを取り入れて、オープンスペース、フレンチテイスト、ビストロと考えた。たまたまフランスのヌーベルバーグの映画でサンジェルマンのカフェを知っていた、じゃ、あれやろうよ」
「その時に神戸の老舗フレンチのパティシエがよく遊びにきていた。彼が、ウチでスイーツを作るから、お前の店で売っていいと言ってくれた。人間ってタフな生き物で、街が復興したり空腹が満たされると、コーヒーが飲みたくなる。次はスイーツ。その波にうまく乗れたんだと思います。そのスイーツは凄く売れるようになった。それでパティスリー事業を始めたんです。当時の巷のケーキ店は、まだお堅い感じでしたが、難しく考えず、デザイン性を取り入れて、軽いテンションでやったら話題になってくれました」
ポトマック組織のコアの部分は震災を乗り越えたという連帯感でつながっている。この事業拡大を機に同社は有限会社から株式会社に組織変更する。「ここまできた以上、楽しくいい会社にしてスタッフ一人一人が楽しく働ける」組織作りを意識するようになった。
・大型2店の出店で学んだ足元固め
パティスリー事業を行うことにより、「TOOTHTOOTH」の認知が広がる。
「今まではコアなお客さんだけが飲み食いして楽しんでくれてました。ケーキを展開することにより、一般の人まで利用の幅が広がって、子供のお誕生日にケーキを買いに行こうという志向ができた。『TOOTHTOOTH』の認知が、神戸の中で急に上がっていった」
ここから色んな商業施設からのオファーが始まる。
「最初は神戸国際会館、神戸の震災復興のシンボル。その最上階。初の大箱のオファー。真ん中にヨーロッパ風のオープンエアガーデンがあり、その周りの席がある。屋上に人が上がってくるのは難しいと言われていたんです。でも、オープンすると、行列が途切れない。エレベータを制御するほどでした。ここで学んだことは、オペレーションはロジカルに動かさないとダメということ。根性まわしは無理でした。」
「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」の庭
「トゥーストゥース・ガーデンレストラン」 店内
「次も大箱をやりました。わずか3ヶ月後です。三井不動産のマリンピア神戸ポルトバザールに100坪でオープン。これら2店をやることにより、支える仕組みとロジックに基づくオペレーションが必要だと気付きました。そして、この大型店のオープンで、興味を持って人材も集まり出しました。」
現在、会社の本部スタッフは約30人。業態や食材の開発を行う商品開発部、店舗を円滑に回す営業推進部、物件を探す店舗開発部、販促を考える営業企画部、デザインを担当する企画デザイン部、そして、財務部と総務部の7つの部署で構成される。
別の柱に、店舗のコンセプト毎に事業部がある。事業部名は仏の前衛芸術家、ジャン・コクトーの小説「ポトマック」(社名でもある)に登場するポトマックの仲間達の名前だ。例えば、関西の大型店舗業態を担当する「ファランクス事業部」、サブカルチャーと食のコラボを担当する「オポポナックス事業部」、パティスリー業態を担当する「アラトワアル事業部」など。各事業部に、ゼネラル・マネージャー、チーフマネージャー、マネージャー、店長、料理長のヒエラルキーが作られている。
「CONANA」三宮店 店内
「CONANA」新宿ルミネエスト店 料理
・既存店が落ちるのは絶対納得いかない
「既存店の売上高が落ちるのが絶対納得いきません。過去の成功例、失敗例を勉強するのが大好きです。新しいものはまず失敗はないんです。どれも気付くための大切な経験だからです。既存店の売上を維持するためには、気付きがどれだけできるかにかかっている。そのために各事業部のマネージャー以上は各店舗をずっと回り続けているんです。」
「既存店の売上高前年比102%くらい。出店を我慢しても、ブラッシュアップには投資します。同じ場所で一番長く営業している店舗は神戸国際会館の『トゥーストゥース・ダイニングガーデン』ですが前年103%。2001年に大阪梅田チェルシーマーケットにオープンした『カラーズ』は7年目で最高売上になりました。」
「既存店がまわらなくなっても店舗を新規に出店するのは自殺行為かな。前年、前々年と内部充実を図り徹底的に見直したので、来年から攻めと守りを同じ比率でいこうかと思っています」
新規出店の際には、ポトマック方程式というルールがある。時代や立地のモチベーション、売上見込み、自分たちが目指す利益などの指標の全てが合致しないと無理して出店はしない。各部署の各専門チームが納得して、出店が決定するそうだ。
「店舗単体で営業利益20%は目指したい。FL値55%以上では無理。業態が多岐にわたるので、本部でそれぞれの店の役割にあわせてコントロールし、全体のバランスを見ている」
「今までの撤退は2店。神戸は人口が少なく客単価が高くない。努力が必要な土地で、もまれ、多少足腰が強くなった。東京と距離をとっていたことで、憧れと冷め具合がちょうどよい」と、東京市場に浮かれることはない。
・昭和のナショナルチェーンを踏襲しない
「自分の大切な人を店に連れてきて満足してくれたらOK。1人でも不味いとか、カッコ悪いとか言われたら、店をやっていく意味があるだろうか?オーナーがそこそこで良いというと全員がそこそこで良いと妥協を覚える。ボクたちは巨大な昭和の高度成長期に産み落とされて、それを反面教師と思ってビジネスを始めたところがあるんです。ある意味、いつまでも抗っておかなければ、僕らの価値はない、とも思うんです。」
「自分たちの店を使う頻度がめちゃめちゃ高いです。お昼は必ず自分の店に行く。ランチの1000円やったらウチの店の方がパフォーマンスが高いし、美味しいもん。そして、ちょっとでも問題があったら、担当者たちに招集をかけるんです。ボクがそれをするからゼネラル・マネージャーも同じ視点でビジネスをやってくれると信じています。」
「悩ましいことといったら、業態名を商業施設から求められる場合。カテゴライズできないものばかりなんです。よく使う『ブラッスリー』はカフェでもレストランでもバーでもない。居酒屋でもない。じゃ何なのか?ダイニングかダイナーか、それも違う。だから、いつも迷うんです。例えば『バルバラマーケットプレイス』、マーケットとつくだけでワイワイした感じになる。ヨーロッパの市場の人の集う食堂なんです。店名だけでも、業態が想像できる店名なんです」
「バルバラ・マーケットプレイス」本店(大阪・中崎) 外観
「バルバラ・マーケットプレイス」本店 店内
「バルバラ・マーケットプレイス」本店 店内
「バルバラ・マーケットプレイス」本店 料理人
「バルバラ・マーケットプレイス」本店 料理
「上場は今、考えていません。上場企業は近年苦しんでいる。上場の意味はどれだけ早く成長して利益を還元してくれるのか。今のボクらはそれとは相容れないです。昭和のナショナルチェーン的なロジックは使っていません。新店を出すより、既存店が1年でも長く残ってくれた方が利益と価値が大きいと思っています。」
「アウトドアの『パタゴニア』は売上の1%を、環境保護団体を支援するために寄付している。会社というものにはそんな理念があって、心を震わせられるものがあった方がいい」
・社員200人全員と年3回面接
一番大事なポトマックの理念は、「人を楽しませることを心から楽しむ」。
「飲食業である以上、お客さんが楽しい、スタッフが楽しい、ボクも楽しくいかないと。求人難でも人は来てくれる。楽しそうと言われる。実際、新入社員の定着率が毎年上がってきて、中途社員も、年々離職率が減っています。」
社員モチベーションを上げるため、年に1度、全社員とアルバイトを神戸に集めて「ポトマックナイト」を秋に開催している。去年は神戸の老舗のキャバレーを借り切り、インドと仮装をテーマに開いた。「巨大コンパみたいで、東京も関西も上司も部下も関係なく、皆が楽しく笑って飲んで食べる。これが醍醐味。今年は遊園地借り切ろか」と話しているそうだ。
社員と社長との人事面談が年に3回もある。全社員約200名と金指氏は個別に会う。1回の面談で神戸本社で1週間、東京支社で3日かける。ゼネラルマネージャーや常務との面談が終わった後、社長面談。「誉めてあげてください」とか、「くじけているので、ハッパかけてください」とかの事前のアドバイスを受けての最終面談だ。
「社員と毎年3回話したら名前と顔が一致する。3年目になると恋愛の話までされる。 そうなったら勝ちかな。200人に1対1で会うと疲れるが、だんだん慣れてくるものです。若い子とはプライベートの話になって楽しい。アドレナリンが出てきます。最初は疲労困憊で寝込んだけど。この規模の会社で社長と話したことがない社員がいる組織は信じられない」
「ボクがカリスマになるんじゃなくて、店がカリスマになる」という金指氏。ジャン・コクトーやサブカルチャーが好きで反抗精神旺盛な彼は、昭和の高度成長時代のチェーン展開に反旗を振りかざす。理想を求めるだけでなく、したたかな経営者の一面も持っている。今の東京の外食業界にはいない、刺激的な経営者だ。