・飲食店は1人ではできない
内山氏は横浜で生まれ、小学校の頃から母親の料理の手伝いが好きだった。もともと、物を作ることが好きで、バイクにも興味があったが、料理の道を選ぶ。将来は自分の店を持ちたいと思い続けていた。ちなみに1才上の兄が先にバイク店を始めたため、反発心から料理になったそうでもある。
神奈川の高校生時代から、飲食店の厨房でアルバイトを重ね、そのままバイト先に就職した。様々な業態・客単価のレストラン、結婚式場など約30店を展開していた企業。料理人だけで200人もいた。27歳までの9年間、この外食企業に勤めた。
そして、23才である店のシェフを任される。しかし、「どんどんスタッフが辞めていき、気がついたら僕1人だけ。3ヶ月間休み無し。人を使えないと料理が出来てもだめ。おいしい料理は当然として、それよりも人間性の方が大事だと気付いたんです」と内山氏。
「チーム作りを体で覚えました。部下を気持ちよくさせたり叱責しながら、部下が働くことが楽しいと思えるチームを試行錯誤しながら作れるようになった。料理も独学ですが、部下に何かを伝えるのも、自分で失敗しているからリアルに説明できたんです」
「29才の時に子供が出来ました。子供への愛情は無償ですよね。子供への愛情を部下にも向けたらもっと伝わるんじゃないかなと思いました。大切なのは1つ。ハートが伝わるか、伝わらないか。自分が間違っていたら部下にも素直に謝る。これまで温かいハートを持っていれば飲食はできると漠然と思って来ましたが、40才の今思うとそれは間違っていなかったな、と思います」
・母親に料理を作った時の緊張感
「高級店は個人的には好きではない。一流店はたくさんあって、当時このままでいいのか、この先、何があるかと思い悩みました。でも、目の前のお客様を満足させられない人間が、部下を大事にできない人間が、一流と言われる店で働いて何ができるんだと気付いたんです。客単価の高さよりお客さんの笑顔がどれだけ多い店で働けるかが全てです」
横浜の外食企業を退職し、内山氏はお客の顔が見えるオープンキッチンの店で働き始めた。
「フランス料理って毎日食べられないですよね。お客様は色んな料理を食べたい。だから、何でも作れるようになりたいと思いました。フレンチから、当時出始めた「無国籍」にステージを変えた。触ったことのない調味料もどんどん使った。お客様の喜ぶ顔をオープンキッチンから見るのが楽しみでした」
そんな時に、息子の働く姿を見ようと母親が店を訪ねてきた。
「母が食べに来てくれました。それまでは緊張したことはなかったんですが、でも、母が注文した料理と分かった瞬間に極度の緊張感がグアッとこみ上げてきたんです。手が震えました。一番認めてもらいたい人なので、急に力が入ったんです。母には絶対美味しいと思える料理を出せました」
「この体験から、調理が作業化してしまう瞬間が激減しました。盛りつける瞬間、最後にあしらいを添える瞬間まで緊張感を持って、これがベストと思える料理を出すようになりました」
「自分の母に料理を出して震えた話を部下にも話します。皆、この話を聞いてくれます。一度自分の母親を呼べ、自分の一番大事だと思う人を店に呼べ、そうしたら気持ちが分かる。その気持ちで全てのお客さんに接することができれば必ず伝わると教えています」
<内山氏 自信のメニュー3品>
①ALOHA TABLEより「ハムステーキwithパイナップルビーンズ」
②舌呑EBISUより「味噌串カツ」
③魚の彩りマリネ
・38才で独立すると宣言してゼットン入社
あるオーナーの下、恵比寿でレストランを開業したが失敗。横浜の先輩などから声を掛けて戴いたのですが、もう少し東京でやってみたかった。唯一土地勘のあった恵比寿で次の職場を探していて、求人誌でゼットンを見つける。創作や無国籍料理の技術が生かせると目に止まった。ゼットンは2001年3月に東京1号店「舌呑EBISU」をオープンさせたところ。面接に行くと、これから東京で店舗展開するに当たり、今後出店する東京の全ての店舗を任せられる料理人を募集していると言われ、いきなり社長面接。
「行ったら、でっかい怖そうな人がいた。話してる途中、あなたで面接30人目と言われました。『ウチは人、チームを大事にしている会社、自分しか大事に出来ない人間は自然に淘汰される』と説明された。稲本社長は僕と年齢が同じ。片や10店舗以上の経営者、片や求職者。その差に愕然としました」
「『独立心はありますか?』と聞かれ、あります。『いつですか?』、38才です。今は33才ですが、38才で独立するつもり。色んな店を回ってきて、色んな転職をくりかえした。 今回を独立までの最後の転職にしたい。独立までの5年間は死に物狂いでやらせていただきます。僕の経験は必ず力になれる自負がありますと話しました。5分の面接で採用されました。エー、ちょっと待って!30人の中でなんで僕が!と驚きました。採用のポイントを訊ねると、『その目は大丈夫な目をしてる』と・・・言葉が出ませんでした」
「舌呑EBISU」がオープンしたのは3月、内山氏が同店で働き始めたのが5月。彼にとり最大の転換期となった。
「舌呑EBISU」店内
「舌呑EBISU」店内
「オープン直後と言うのもあり、オペレーションはまだ整えている最中ではあったが、お客様を楽しませようという思いのもと、まずはスタッフが楽しもうとみんな一生懸命だった。僕が今までいた店は何だったんだ。当時15年の料理キャリアで、こんなに楽しそうにスタッフが働ける店は見たことがないと思いました」
「1日に3回も4回もピークが来る。美味しい料理を作るだけではダメと改めて痛感。料理の味だけでなく、音楽、内装、笑顔、サービスなどのトータル。店を出る時に楽しかったと思える店が勝っていく。まざまざと見せつけられた。この会社で本気でがんばろうと思いました」
そして、11月に「ギンザ舌呑」、翌年8月に「チャミスル」と東京での立ち上げを任せられる。「チャミスル」から現場を持たなくなり、エリアの統括料理長への道を歩む。社長のどんな要望にも対応できるよう、韓国、エスニック、イタリアンなど知識を詰め込んだ。また、多くの店を視察し、いいものを「感じる」センスを磨いた。
・死ぬ時にいい人生だったと思いたい
「鈴木(現副社長)と2人で東京の出店を進めてきました。独立すると宣言した38才が近づくと、もうすぐいなくなるからと鈴木に話していました。38才の3ヶ月前『おれは期限を撤回する。5年は節目だがまだ勉強するところ、足りないところ、やり残したことがたくさんある。』と伝えました。鈴木は『よかった。また一緒にやろう!』と喜んでくれました」
そして、今年5月の株主総会で取締役に任名された。
「grigio la tavola(赤坂サカス)のオープン時、稲本から呼び出され『常々しっくりこないことがある。なぜ、お前が取締役じゃないんだ。お前の得意は何だ。料理技術より仲間をいかにモチベーション上げること。悩んでいるやつをひっぱりだすこと。ハートに自信があるだろう。それをもっと生かせる立場でやれ』と言われ、即決。受けさせていただきますと答えました」
「実は総料理長の肩書きを外して欲しいと思っていた。自分より向いている人が他にたくさんいるのでは?と思っていた。でも、もう一度この立場でがんばっていこう。もっと皆にいろんな思いを伝えていこう。料理はもとより、人間性が大事」
「死ぬ時にいい人生だったと思えるために、道を選ぶ。僕は飲食という道を選んだ。その道を通して自分を磨いていくのが人生。皆と一緒に磨き合いながら続けていきたい」
「ゼットンはとても温かい会社。たまに暑苦しい時もあるが(笑)。社員が増えて、名前が覚えられず、関われてないのが寂しい。でも、関わってきた後輩達が僕らと同じようにやってくれているのが感じられます」
内山氏の夢は、カウンター8席の店。全て自分で仕切って、お客を選ぶ店。
「最後の最後の夢。原価率60%で、初期投資をお客様にかぶせたくない。完全に趣味の店です。その為に資本が必要。それまでは全力疾走。ヨレヨレになってからです」と、まだまだゼットンでやり残している事がありそうだ。