フードリンクレポート


<営業本部長シリーズ 6>
社員が永く働きたいと思う企業を作りたい! 
次世代外食企業を生み出す。
秋元 巳智雄氏
株式会社ワンダーテーブル 取締役

2008.6.25
有名外食企業の社長の右腕、営業本部長を紹介するシリーズ第5弾。米国から急遽呼び戻され、赤字だった富士汽船(現ワンダーテーブル)を飲食事業に変えて企業を立て直したワンダーテーブル林祥隆社長。彼を当初から支えた秋元氏を取材した。社員が永く働きたい会社づくりのための中期経営計画をまとめ、実現に向けて林氏、秋元氏の2人3脚体制で邁進している。


秋元 巳智雄氏(株式会社ワンダーテーブル 取締役)

大学時代、飲食を天職と悟る

 秋元氏は埼玉県草加市の地主の次男に生まれる。3世代同居の大家族の中、家で作った米や野菜を食べて育った。今でいうスローフードの環境。ファミレスやファーストフードが急成長した時代にもかかわらず母の作る田舎料理を食べていた。子供の頃はほとんど外食した記憶が無い。運動会などで友達のお弁当にハンバーグやナポリタンが入っているのが羨ましかったそうだ。「両親も食材や料理に哲学を持っていて、いつも自分の家で作った野菜の料理を食べさせてくれました。というか食べさせられた。今でも共鳴できる人は食材が好きな人、食材にこだわる人。今では両親に感謝しています」と言う。

 親族からはよく「お前は愛想がいいから商売に向いている」と言われていた秋元氏は大学時代、自然に外食のアルバイトに向かった。出会ったのがサントリーとUCCが展開し始めた、銀座8丁目に出来た「プロント」1号店。

「プロント」は当時、サントリーやUCCのエリート社員達が集まってFCを拡大するために懸命に仕組み作りに取り組んでいた。秋元氏はそこでアルバイトながら関わり、サントリー系列の外食企業で重宝がられるようになる。サントリーグルメ事業部、ダイナック、ミュープランニング&オペレーターズ、そしてサントリーグルメ事業部OBの大城政次氏率いる「日比谷バー」などで新店の立ち上げ、スタッフの教育などを任されていく。

「プロントにはまって外食は僕の天職だなと思いました。やりがいを持たせてもらって 社員のように扱ってくれました。アルバイト・マネージャーの第1号にもなりました。19年前ですが時給1300円、マネージャー手当1500円ももらっていました。店で皆と一緒に働くのが楽しかった、店を成長させるのも楽しかった、人の指導も楽しかったです」

 外食は天職と思い楽しい学生時代を過ごした。この時点では将来、独立し飲食店のオーナーになりたいと思っていたという。


「小ベンツくらいでいいのか」独立に悩む

 大学卒業後、そのままミュープランニング&オペレーターズの社員として入社。すぐに企画チームに配属され、教育研修やドリンクのスーパーバイザーを担当しながら、全国の企業のレストランやバーのプロデュースを4年間務める。

 経営者になりたいという夢をミュープランニング&オペレーターズの吉本社長も理解しており、有限会社を作ってミューに在籍しながら西麻布で10坪のバーやレストランなど3店をパートナーと運営していた。

「経営者としての達成感やそれなりのやりがいがあるがこれでいいのか。1〜2軒で365日働けは小ベンツくらいは買えるかもしれない。でも、自分は本当に幸せかと疑問を感じた。自分はそこまでの能力で止まってしまう。大きな経営する知識も経験も無い。それでいいのか」と考え、会社のパートナーから手を引いた。

 ミュープランニング&オペレーターズ時代のクライアントに富士汽船(現ワンダーテーブル)があった。2部上場ながら大赤字、ヒューマックスグループが資本を入れてそのキャッシュで建て直そうとしていた。そしてヒューマックスグループのファミリーの中で、米国でMBA取得した現社長の林祥隆氏が日本に戻り立て直しに奔走していた。

 当時、刺身居酒屋「三四味屋」、しゃぶしゃぶすき焼食べ放題「モーモーパラダイス」、イタリアン「Bellini Pizza Kitchen, Bellini Food & Beer Court」などを試行錯誤しながら展開していた。そこにシュラスコブームがやってきてサンパウロから「Barbacoa Grill」のライセンスを誘致した。そのオープニングの研修を外注先としてミュープランニング&オペレーターズに任され、秋元氏は50〜60人のオープニングスタッフを取り仕切った。そこが、林祥隆氏との出会いの原点である。


「バルバッコア・グリル」 (イメージ)


「バルバッコア・グリル」 (内観イメージ)

 その後、富士汽船からミュープランニング&オペレーターズにメニューや研修、業態開発の仕事がくる。当時、「Bellini」は六本木と渋谷にあり、とてもいい店だったが赤字店だった。経営者の思いで作ったお店だが、トレンドやマーケットに合っていなかった。秋元氏はこの「Bellini」を進化させた「Tokyo Bellini Caffe」を開発した。新宿と高輪に出店した「Tokyo Bellini Caffe」が大ヒット。毎日長蛇の列だった。

「儲かるイタリアンを作りましょうと提案しました。カジュアルでカフェでもパスタだけでもいい。使い勝手の良いイタリアンというコンセプトがTokyo Bellini Caffe。新宿に作って大当り。カジュアルイタリアンのブームも来て、これを広げようとなりました」と秋元氏は林氏に一目置かれるようになる。


「東京ベリーニカフェ」 (内観イメージ)


「東京ベリーニカフェ」 (外観イメージ)


赤字会社の富士汽船に可能性を見た

 富士汽船は当時、本社も店舗も自分の立場を守るためだけに働くような社員が多かったという。林氏が米国から帰国した時には、若い御曹司が入社してきたと社員から注目されていた。林氏は会社の仕組みを変えたいと考え、自分一人で取り仕切るのではなく、何人かをヘッドハンティングして自分の思いを伝えながら動かしていくというスタイルに変えようとしていた。ヘッドハンティングされた内の1人が秋元氏。

「林さんや他の新しいスタッフとの関係が良かった。食材への思いに共鳴できました。この会社、今はいいブランドもない赤字会社。でも、将来は伸びる可能性はあるし、この人たちと伸ばしていきたい」と秋元氏に来ていたいくつかの誘いの中では最も条件が悪かったが、会社と人に魅力を感じて入社を決めた。

「当時、林さんは営業本部長でした。早く林さんを社長にしたい、男にしたいと思った。また、3〜4年で勢いのある会社にできるだろうと思いました」

 そして、秋元氏はミュー時代から手掛けたイタリアンブランドのSVと業態開発を担当。企画の部署を作って、企画とのアシスタントマネージャーを兼務、次に和食も担当するようになる。

 入社して5年で売上90億までスピーディーに成長できた。林氏と料理長だった長岡氏、そして秋元氏の3人のトライアングルで相談しながら店舗展開を進めた。林氏が全体を見ながら、秋元氏がホールと営業を見て、長岡氏がキッチンや購入を見る。「月の兎」「すみか」などがこうして誕生した。しかし、途中で長岡氏は退社し独立してしまう。


業態開発を組織でやろう

「オーナー企業に多いが、単純に自分のやりたい店だけを考えて出店すると失敗する。お客様が喜ぶとか、ビジネスとして成功する店を作らなきゃいけない。自分の力だけでできないなら、他の力を投入しよう。部やグループに権限委譲してその人間がしっかりものを考えるようにしていった。そして最初に委譲されたのが僕と長岡氏だった」という。

「鬼に金棒という言葉があります。とっても強いという意味です。林と僕は、鬼は現場力、金棒はブランド力だと考えています。当社はここ数年、現場力に力を入れ、鬼を育てる仕組みができてきました。昨年からブランド力を構築する仕組みに取り組んでいます」

 現場力を上げる「営業推進部」、ブランド力を上げる「営業企画部」という2つの部署を作った。「営業企画部」はマーケティングと商品企画の2つのグループに分けている。物件が来たらマーケティングでどんなブランドがいいのか徹底的に調べる。強いブランドはそれに合った物件を探していく。そして商品企画がそれに合うメニューを開発し食材を探す。「営業推進部」は、多店舗化しているモーパラ・鍋ぞうとマルチブランドの2つのグループに分けて店舗マネジメントをしている。秋元氏は両方の部長と担当役員を現在は兼ねているが、それをもっと委譲したいと考えている。

「例えば、柏の商業施設に物件が出ました。うちがヒットしやすい業種を考える。客層は9割が女性で大人が多い。でも、食事利用が多くアルコール需要は少ない。すると和系の居酒屋より洋食が強いと思う。和系でやって下さいとデベロッパーから言われても、うちで和系をやったら勝ち組に入れない。洋食の方が勝てる可能性が高い。じゃ、イタリアンはどうか。柏を分析した時、パスタの店はいっぱいあるが、ピザの店は少ないな。仮説としてピッツェリアをやったら、フロアの中に似たのはないしイタリアンとしてもユニーク。柏の街場にもないので勝てる可能性が高いと仮説を立てる」

「まずは、スタッフにプロセスを理解させ仮説を提案させる。僕が入ってその仮説が一番良かろう。じゃベンチマークはどこ。ネットで出させる。うちの利用動機を考えると、この5店舗に絞られる。徹底的に回って参考にしよう。じゃ、商品企画グループでメニュー作って」と、プロセスが出来上がっている。

「流れはできたが、重要なのは仮説力。これは、センスと経験に因る。仮設を絞る役目は僕で最後に林と二人で相談し経営判断する。スタッフは仮説を何案か持ってきてくれるまでになりました」

「そうした取組みから当たる確率は高まりました。でも、その分出店はネガティブになる。冒険しなくなる。お台場の『すみか』のような大勝負は今はない」

「過去の失敗は2つ。マーケットの成長を読めなかったことと、それに合ったブランドを開発してなかったこと。出しちゃいけない所に出した店は閉めるしかない。マーケットに合ったブランドじゃないならブランドを変えればいい。既存店では閉めるのかブランドを変えるのか、新規ではどのブランドが勝てるのかマーケット分析とブランド開発に力を入れています」


「社員が永く働きたいと思う会社」を目指す

「あの時に会社を作っていれば、それなりに成功するこができたかもしれないとも思います。でも途中で腹をくくりました。自分が独立して小さな会社の社長になるより、人生でより大きなことをやりたいという気持に切り替えました。また、外食企業のプロの経営者になることを決めました。2000年で営業部長になった時です。ワンダーテーブルという社名も林と考えた名前です。2002年に林が社長になり、僕も取締役に就任しました。この会社を誰よりも自分の会社だと思ってやってきました」

「社員が独立するだけでなく、この会社で働くことが人生の生きがいとなるような会社をつくろう」と考え、2007年に4ヵ年の中期経営計画を作り、「社員が永く働きたいと思う会社」をスローガンに掲げた。

 社員の中に「ワンダーテーブル・フィロソフィー(企業哲学)」をしっかり浸透させようとしている。その中に「自分を大事にする」という言葉がある。


携帯用「ワンダーテーブル・フィロソフィー(企業哲学)」 


新卒リクルーティング用パンフにもフィロソフィーを解説

「お客様や仲間を大事にすることは良く言われるが、何気に自分を大事にすることができてない。自分の大事にすることは健康に心掛けること。休めよ、ただがむしゃらに働くな、年に1週間の長期休暇をとれ。家族を大事にすることが自分を大事にすることなんだと啓蒙しています」 

 実際に店舗でもスタッフで毎日議論されている。例えば「健康に気を使っているとはどういうことか」と聞いて「あるスタッフは、ひとつ前の駅で降りて歩いて出勤している」と言うとみんな、へえーとか言いながら、みんなでフィロソフィーについて共有する。

 さらに、「プロフェショナルが育つ会社」を掲げる。「独立したい人と自律して仕事したい人の2通りあります。両方にチャンスを与えることが大事です。独立する人は辞めていく。でもそれを恐れて自律する人を会社は育ててない。両方を育てられればワンダーテーブルの事が好きになってもらえます。それが永く働くことに繋がります」

 ワンダーテーブルはオーナー系の多い外食企業の中で際立つ組織的な会社だ。秋元氏は純粋で真面目で誰にも好かれる人柄。同様に純粋で真面目な林社長とともに次世代の外食企業を作ろうとしている。企業寿命30年といわれる外食産業の中で、50年、100年と「永く続く会社」を作り上げて欲しい。


■秋元 巳智雄(あきもと みちお)
株式会社ワンダーテーブル 取締役。1969年生まれ。埼玉県出身。大学時代に「プロント」1号店でアルバイト。サントリー系列の外食企業で働いた後、1997年に富士汽船入社。2000年に社名がワンダーテーブルに変更され、営業部長に就任。2002年に取締役に就任。

株式会社ワンダーテーブル(東証2部上場) http://www.wondertable.com/

【取材・執筆】 安田 正明(やすだ まさあき) 2008年6月3日取材