・洋風居酒屋ブーム、女性向け焼鳥店で成功
粟田氏が飲食店を開業したのは1985年。父親と同じ警察官の道を思いとどまり、独立を決めた。佐川急便でセールスドライバーとして働いて資金を貯め、23歳で夫婦2人でわずか8坪の焼鳥店を地元、兵庫県加古川市に開業した。
「警察官だった父を早くに亡くして、母と兄と3人で生きてきました。豊かさへのあこがれが開業のきっかけの1つでしたね。家内と2人で寝食を忘れて働きました。当時はバブルでしたが、仕事ばかりやっていたので当時はバブルとは気付かないほど。成功は強く心にありました。絶対に成功したるねん。金持ちではなく、とにかく成功者になりたかった」と粟田氏。
カウンター越しにオープンキッチンで焼鳥を焼くスタイル。粟田氏は次から次へと巧みな話術で集客した。このオープンキッチンの伝統は、今の「丸亀製麺」にも受け継がれている。
「僕に商売させたら、そのへんのスナックのお姉さんには負けませんよ。カウンター10人で、全員を飽きさせない。口で1軒目を流行らせた(笑)。お客さんが来なかった時、流行っているラーメン屋があって観察すると深夜12時から混み出していた。真似て朝まで営業です。12時までは暇で、それを過ぎるとグワっと来てくれました。まだ23歳ですから、お客さんに息子のように可愛がってもらいました。」
女性の社会進出とともに「村さ来」「つぼ八」といった女性客向けの居酒屋が出始めた。1988年改装し、若い女性をターゲットに洋風焼鳥店「Yakitori Tori Doll 3番館」と名付けた。3店舗を目指し“3番館”と店名に入れた。
本社受付に掲げられた、トリドール創業店の看板。
「当時は、大皿料理で楽グループが一世風靡。料理そのものより発想で戦っていけた時代。未成熟な素人でも参入ができた。チャレンジすることが直ぐに結果として出た。居酒屋業が急成長した時代です。焼鳥を焼きながら流行りの大皿料理を並べて、ウチは大皿料理屋だと言ってましたよ(笑)。」
そして、2号店を4年後の1989年にようやくオープン。
「4年間辛抱してやっと金を貯めて2店目です。ところが大失敗。1軒目の利益を全部食っちゃった。敗因は勉強不足。商売そのものが分からなかった。がんこ炉端焼きで1年間だけお世話になって、串の打ち方や魚の捌き方は教えてもらいましたが、数字や経営は習わなかった。行動の方が早いタイプで頭は後。焼鳥さえ焼ければできる、店を開ければ流行ると思っていました。2号店は酒屋の2階。今の店が流行っているので、200m先に作っても流行るだろうと。看板さえ出せば分かってくれるだろうと。ところが、2階で階段も小さくてお客さんが全然来なかった。1階と2階の差も分からなかったんですね。こんな調子で、商売を心の傷で覚えて行ったんです(笑)。」
洋風居酒屋のブームに乗って、店舗数は徐々に増えた。店頭公開(1996年)したワタミ創業者、渡邉美樹氏にも経営を学んだ。
「ワタミさんが店頭公開した時、渡邉美樹さんの講演会に行った。会いたくて控室に突撃しました。経営を教えて下さいと言うと、PLとBSを持って来いと言われました。僕は何やそれ、です(笑)。税理士に作ってもらって、東京・蒲田のワタミ本社で2時間、渡邉美樹さんに対面しました。」
「若い女性が来られる店を作りました。当時は行ける店がなかった。スタッフはコックコート着て、カウンターに皿を置いたら大皿料理屋と言えた時代。昔は未成熟ですから何をしても当たった。でも、街が成熟してより本格的でカッコいいイタリアンの店ができてダメになったんです。なんちゃってだから。若い女性をもっていかれました(笑)。」
そして、郊外のファミレス型、和風焼鳥ファミリーダイニング「とりどーる」に転換。1999年から。
「焼鳥は赤ちょうちんでお父さんの世界。お酒を飲めない人は来ないで、という空気がありました。本当は家族皆で焼鳥を食べに行きたい。そこで、ファミレスタイプの焼鳥にしました。それがバッチリ当たった。家族連れが押し寄せてきました。乳児を抱きながらお母さんがビールを飲む世界を作ってきた。お母さんも飲めるし、小さな子が店ははしゃげる。そんな店をつくったら当たった。お母さん達の独身時代は村さ来やつぼ八。その世代がお母さんになったので、抵抗感なくジョッキをあおれた。ファミレスでビールを飲むとアル中かと思われるでしょう。気兼ねなくビールが飲める店がなかったんです。」
そして、2000年のITバブルの到来で、IT企業に負けるものかと上場を目標に据えた。焼鳥店は20店舗を超えていた。
「IT企業がどんどん上場して、とんでもない金額がついていく。これが成功や、と思いました。ITがいけてなぜ僕がいけないんや、です。当時の功罪もありますが、あんなに日本が盛り上ったことはない。企業が盛り上がると国力も盛り上がる。熱気がありました。焼鳥で成功しようと思っていました。」