フードリンクレポート
有田焼を再度、世界に!
巨匠デイビッド・ブーレーとNYでコラボ・ディナー開催(3−1)
有田焼を世界へ。左から、デイビッド・ブーレー氏、森山俊弘氏(株式会社サンタフーズ、食材の供給を担当)、辻諭氏(辻与製陶所)、松本哲氏(有田製窯株式会社)。
・「柿右衛門」「色鍋島」「明治伊万里」
有田焼は、1616年に韓国から来た陶工、李参平が佐賀県有田の泉山で磁器に適した土を産出する白磁鉱を発見したことに始まる。日本初の白磁が誕生したのが有田。
ちなみに、陶器と磁器は異なる。陶器はねばり気のある粘土(陶土)が原料。素焼き状態では褐色の土の色をしている。備前焼や益子焼がこれ。他方、磁器は中国で発祥し、石(陶石)を細かく砕いたものを原料とする。固くて滑らかで地肌は乳白色。細かい絵付けができる。有田焼がこれ。有田焼は伊万里焼とも呼ばれるが、全国に輸送するための積み出し港の名前、“伊万里”に由来している。
白磁に絵付けをしていたが、白磁の誕生から間もなく、酒井田喜三右衛門が今まで出せなかった赤色を焼きつける技法に成功。「柿右衛門」と名乗った。赤色系の絵付けが人気となり、17世紀のヨーロッパにも輸出された。
佐賀藩(鍋島藩)直営の窯で、藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら作っていた。鮮やかな青色を基調として絵付けがなされ、「色鍋島」といわれる。品質を維持し、技術漏洩を防ぐため、藩窯に出入りを厳しく制限していた。
そして、19世紀後半、ヨーロッパでジャポニズムが人気を博し、浮世絵をはじめ日本の伝統工芸品が有力な輸出品として、明治政府の殖産興業と外貨獲得に大きく貢献していた。中でも日本の陶磁器は、ドイツのマイセンやフランスのセーブルをしのぎ、高い評価を受けた。
1879年(明治12年)に有田に精磁会社が誕生。和と洋の意匠が独特の「明治伊万里」を生み出し、1883年(明治16年)のオランダ・アムステルダム博覧会で金賞を受賞。さらに同年に、日本の西洋化を推進するために建てられた社交場、鹿鳴館では精磁会社が作った洋食器が使われ、各国要人をもてなした。しかし、精磁会社は10年で倒産。
よみがえった、明治伊万里。
2006年、それを現代によみがえらせる“精磁会社復刻プロジェクト”が有田にスタート。精磁会社に4代目の伯父が加わったという有田製窯株式会社(佐賀県西松浦郡有田町)の代表で7代目、松本哲氏が中心となり、「鹿鳴館」で使われていたディナーセットを2007年1月に見事に復活させた。有田では長期間にわたる景気の低迷のため、人員整理、廃業、熟練工の高齢化により、技術が途切れようとしていた。「鹿鳴館」復活プロジェクトにより、伝統技術の掘り起こしにつながった。
→「鹿鳴館の器”精磁会社”を復刻する会」
そして、2010年、世界への挑戦を再開した。そのリーダー役は、「鹿鳴館」を復活させた、有田製窯の松本氏。モダンデザインを取り入れた磁器を作り、それを通信販売するオンラインショップ「ARITA
PORCELAIN LAB」を開くなど、有田焼を現代に甦らせようと精力的に活動している。今回、松本氏の呼びかけで、ニューヨークでのフレンチの巨匠デイビット・ブーレー氏がコラボしたディナーが実現した。
デイビット・ブーレー氏。レストラン「ブーレー」は1990年代にNYタイムズ紙で最高の4つ星と、『ザガット』ニューヨーク版の最高評価を維持し続け、一躍有名シェフに。作る料理は”フュージョン・キュイジーヌ”と呼ばれ、日本料理も積極的に取り入れる。
→「Bouley」
ニューヨークには、松本氏の有田製窯を始め、辻与製陶所「TOZAN-KILN」(嬉野市)、カマチ陶舗「Art
Hills」(武雄市山内町)、文八工房(同)の4つの窯元が参加。4社はモダンな食器を開発し、共同で展示会を開くなどしてきた仲間。有田製窯と取引のある辻調理専門学校が、同校卒業生でニューヨークのマンダリンオリエンタルホテルの元総料理長、杉江礼行氏や、ニューヨークを代表するスターシェフ、デイビット・ブーレー氏を紹介した。
杉江礼行氏。マンダリン・オリエンタル ニューヨークのフレンチ・ジャパニーズ「Asiate」のエグゼクティブシェフを務めた。現在はコンサルタント。
→「IRONNORI」
ニューヨークで有田焼を広める4つの窯元
→有田製窯「ARITA PORCELAIN LAB」
→辻与製陶所「TOZAN-KILN」
→カマチ陶舗「Art Hills」
→文八工房