・たい焼きの催事販売からのスタート。ハワイで出会った接客が運命を変えた。
現在、洋食業態のレストランを3店舗、カリーレストランを6店舗、スイーツブッフェ、ジュースバーを併せて全国に11店舗経営する株式会社YOSHIMI(ヨシミ)。長年にわたり厨房に立ち、メニュー開発も行ってきた代表の勝山ヨシミ氏であるが、意外にも飲食業界でのキャリアのスタートは料理人ではなかった。
北海道美唄市で生まれ足寄町で育ち、中学校を卒業後、17歳で札幌へ出て来た勝山氏は食品会社に就職する。その後、18歳で自らビジネスをしたいと思い立ち、機材を揃え、移動式のたい焼き屋を始めた。軽4輪でスーパーやイベント会場などを回る催事販売だった。
その頃ちょうど大ヒットしたのが、子門真人の「およげ!たいやきくん」。その“たい焼きブーム”に便乗して、たい焼き屋は大繁盛。その後、ブームが去ると共に売上も下がったが、今度は業態転換をし、串団子屋を始めたのが21歳。工場で団子を作り、それをスーパーなどで売った。これも繁盛し、大きな工場を借りて製造販売するまでになった。この頃から既に、商売の感覚と運をつかむ才能があったようである。
そんな順風満帆な中、転機が訪れたのは27歳の時。父親と旅したハワイでのことだった。30数年前、まだ海外旅行はかなりの贅沢だった時代。それまで働き詰めだった勝山氏は奮発して、初めての海外旅行でハワイを訪れた。
「ハワイのレストランでサービスを受けて人生観が変わりました。店のスタッフは、常に笑顔で接客をし、明るく『エンジョイ!』と声をかけてくれるではありませんか。かしこまっていないそのサービスはとても心地良いものでした。それに比べると、当時の日本人の接客はかしこまり過ぎてどこか暗い印象。その明るいアメリカ人の接客を見て、自分もそんな表現の仕方をしたい、レストランをやりたい!と思ったんです。」
現在のヨシミ本店。
そして、1983年、勝山氏が31歳の時、自身初となるレストランを札幌にオープンさせることとなる。現在、「ヨシミ本店」がある同じ場所だ。最初の店は、「チャーリーズ・クラブ」というカフェバー。チャーリーというアメリカでポピュラーな名前を店名に付けた。これも、アメリカ文化に憧れる当時の若者世代にうけて、成功する。
しかし、これもブーム性が強い業態だったため、数年で業績が下がり始める。そんな頃、東京では熊谷喜八氏のキハチがオープンし、有名シェフによるレストランブームが訪れた。その頃はまだ料理人ではなかったが、食べ歩きが好きで舌の感覚には確かな自信があった勝山氏。そして、自分の店のシェフに料理を教わり、賄いで作って常連に出したカレーが絶賛されたこともあった。自分で料理を作りたいと、ここから料理人としてのキャリアをスタートさせることになる。
「この当時、まだまだ料理人の世界は徒弟制度が当たり前。それに、接客をするスタッフよりも、調理人が偉いという世界。そんな中では、お客様にサービスを“エンジョイ”してもらうことはできないと思いました。もともと料理人ではなかった自分がそこに入ることで、そんな雰囲気を一掃したいと思ったんです。」
そして、勝山氏39歳の時に新たに料理に力を入れた新業態「海鮮食堂PAO(パオ)」をオープン。料理人としての才能は開花し、その明るいキャラクターから、地元テレビやラジオでレギュラー番組を持つほどの有名シェフとなっていった。その後店は業態を少しずつ変えて、現在の洋食メニューを中心とした「ヨシミ」へとつながっていく。
「チーズカリー」
「焼きカリー」
「ヨシミキッチン 仙台パルコ店」
時代に合わせ、臨機応変に業態や自らの役割をも変えながら、ビジネスを成長させていった勝山氏。この流行を見抜くセンスと、思いを形にする実行力が礎となっているのである。